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<<   作成日時 : 2009/01/12 14:54   >>

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命題コレクション・哲学   坂部恵/加藤尚武 編  ちくま学芸文庫

前期主著・・・論理哲学論考
後期主著・・・哲学的探究
   この後期主著の主題・・・・意味、理解、命題、論理などの概念
「哲学者達が、知識、存在、対象、自我、命題、名前等と言った語を用いて<事の本質>を把握しようとする時、人は常に次の様に自問しなければならない。それでは、それらの元々の故郷である言語において実際にその様に用いられているか。
我々はそれらの語を、形而上学的使用から再び日常的使用へと、連れ戻さなくてはならない。」

ーーこの言葉として表されている説明に対して、まず始まりは<事の本質>であり、それを研究して、知識、存在、対象等の言葉で表す事になる。当然言葉に対して、<事の本質>を研究している時、少なくともまだその本質が解明されていないのだから、まだ見えていないモノの正体を見るまでは、その回答を提出できないので、言葉も表れない事になる。しかし探求される<事の本質>は、まず探求の対象にならなければならないのであり、その探求の対象になっている事を言葉にする事で、人々の前に探求しようとしているモノを提示しているのです。
つまり、<事の本質>が解明される為には、事は、解明しようとする意志に対して、対象となっている事なのです。そこで解明しなければならないと言う意志の対象である為には、少なくとも何らかの意志に対して、対象としてある事が当然なモノとされているのであり、それが日常のありふれたモノとしてあると言う事なのです。
例えば、人類が生まれた時から、朝方も夕方も、南西の空に一番明るく輝いている星を見ている事に対して、それが太陽系の金星である事がしられるのは、朝夕見慣れている星々に対して、太陽系と言う星の体系を得る視点があって初めて成立しているのです。当然毎日見ている星に対して、一つ一つの星の動きを観測して、そこに動きの纏まりとしてのグルーブ化を見つける事で、太陽系と言う視点をえたのです。

とすると形而上学から日常の視点へとは、<事の本質>の解明に、解明する意志の対象として、まず<事>が入って来なければならないと言う事であり、特別に虚空から天下って来た訳ではなく、ありふれた日常の中にあるモノの当然性の中に、ズレが生まれたからこそ、そのズレの意志に新たな疑問が生まれたと言う事なのです。どんなズレがあるにしても、ありふれた日常であるモノの所に生まれているのであるからこそ、ズレにのめり込む事で見えなくなった日常のありふれたモノにかえろうとしているのです。


ウィトゲンシュタインによれば、哲学者たちが哲学的諸問題に悩まされているのは、日常の言語使用から浮き上がった言語使用をしているからだと言う事になる。
この日常の言語使用は、しかし日常の会話をしなさいと言う事ではなくて、命令されなくても必要だから会話をするのであり、日常の出来事に付随して言葉が行き交っているのです。
その様な日常の言葉を<言語ゲーム>と定式化して扱うのです。

言語ゲーム・・・・・・・
   有る一定のコンテキストにおいて、送り手と受け手がおり、それぞれの振舞とか行為と一体となって、用いられるものです。言語が、この様な振舞や行為と一体となっている事を、言語ゲームと定義するのです。
そこで新たな問題が生まれる。
言語ゲームを語る事は可能であるかどうか。
ーールールのある言語は、ある一定のコンテキストに置いて、送り手と受け手の振舞や行為と一体となっている。その言語に規則があると言う事は、あくまでも言語と言う固有の中にあるのであつて、その規則に送り手と受け手の振舞や行為が関わっていても、あくまでも規則の生成に関わっているだけであり、出来上がった規則は、言語の中にしかはたらいていないのです。この場にふさわしい言葉があるのは、確かだが、それはこの場で表現された言葉の内容が、別の内容に置き換われば、この場にふさわしい事になる。表現された言葉には、内容が伴っている。その内容が例えば、謙譲語とかで表現されていれば、話者と聞き手との人間関係がそこに関わっていると言う事なのです。聞き手と話し手の間の人間関係が、謙譲語の使用として表れている。確かにこの様に尊敬語とか謙譲語を表現する事は、日本語のルールであるが、そのルールを踏み外しても、ただ相手に不愉快を与えると言うレベルであって、言葉の意味が成立しなくなる訳ではない。
つまり、言葉のルールには、そのルールに従わなければ、意味が成立しないレベルと人々の間の直接的な人間関係を前提にした表現がなされると言うルールがあるのです。
一般には言語論は、意味の成立として成り立つレベルであるのです。

言語がそれを使用する人間の振舞や行為と一体となっている事を、この様に言葉で説明する時、当然にも言葉の規則に則って説明されているのであるが、話し言葉と違い読み手の人々が例えば男であるか女であるかで、他者を呼ぶ時の言葉に違いをつける事はないのです。表現された言葉が、誰に向かってなされているかを考慮しないと、会話が成立しない話し言葉のレベルに対して、この様な書き言葉では、不特定多数の人々に向かう為に、誰にも当てはまる二人称の言葉にならざるをえないのです。同じ書き言葉でも、手紙文の場合、読み手が特定の個人になる為に、書き手は自分と読み手の人間関係を考えながら、二人称を使う事になるのです。
そこで、この視点から言葉を考える時、英語を使う人々の間にも話し手と聞き手の間に社会的な人間関係があるはずだが、しかし話し手は、日本語の様に相手の違いにより、無数の呼称ーー貴方、貴殿、君、あなた、貴公等ーーがある訳ではなく、相手を呼ぶ時には、必ず<You>と言う一つの呼称を使用するのは、日本語と英語の規則の違いによるのです。
つまり、英語では、主語になる語は、必ず述語の形態を規定するのです。
  I am  a boy. 
You are a boy.
she is a girl.
の様に述語と主語との取り方が、ルールで決まっているのです。
このルールを外れる事は、言葉の使用として誤りになるのであり、言葉が通じなくなるのです。
それに対して、日本語の場合、主語と述語の間に主語が述語の形態を限定するとか、述語が主語の形態・形・語の変化を限定づけると言う事がないのです。日本語では、その限定が無い為に、多様な呼称が生まれる事になったのです。
両者とも言葉としての同一性ーー頭の中の概念認識を、文字や音声として表す事ーーをもちながらも、その概念の表し方の違いがある事で、ルールに違いが出て来る事になったのです。

さらに言えば、英語では、
       I am a boy.
と言う表記に対して、<I>は、必ず主語としてしか使用出来ないのでり、その格の違いを<my,me,mine>の様に別々の語形で表さざるをえないのです。
これを日本語で表記する場合、全て<私>と言う語形に対して、主語としては<私は、私が>になり、目的語では<私を、私に>になり、所有格の場合<私のモノ>の様にして、助詞と言う言葉と連合して表す事になるのです。
この時、日本語の<私>を一人称と規定しても、英語の中には、その語に当たるモノが見当たらないのは、英語では日本語の格との統一を、一つの語で表しているからなのです。
その一つになっている<I ,my,me,mine>を、日本語の様に<私><は、が、に、を>の視点から見て、<私>の語と同じモノはどれであるかと考える事は、日本語の特性である膠着語を、屈折語である英語に直接当てはめようとする事から生まれた、無駄な努力なのです。

日本語の分析から、
      名詞、形容詞、動詞、形容詞、形容動詞・・・・・・・客体的表現
       助詞・・・・・・主体的表現
で、その客体的表現と主体的表現の膠着による表現である日本語視点から、英語を見る時、英語では、主体的、客体的が、一つの語に統一されているのです。語の形が全く変化しているモノと語尾だけが変化するモノがあるのです。
日本語では<私は><私を>を、「私」の語の変化と言わないのは、<は、が、て、に、を>を助詞として捉えていたからなのです。

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