「は」と「が」の助詞を考える(3)
私は、リンゴが好きです。
私は、リンゴを食べました。・・・(1)
私は、リンゴは好きです。
私は、リンゴは食べません。・・・(2)
私は、リンゴは嫌いです。 ・・・(3)
私が、リンゴが好きです。
私が、リンゴは食べました。・・・(4)
[好き][嫌い][食べる]と言う感性や行為の主体である[私]は、言葉を支える現実の行為を、主体と活動として言語化したものと言える。言葉として主体を表すのに、[私は、私が、]として、[は、が]を付けて表す。しかしその[は、が]が付いた語であっても、けっして主語を表しているとは言えない使い方があるのです。
それが[私は、リンゴが嫌いです。私は、リンゴは嫌いです。]の様に、[は、が]付いているから、その語が主語になるのではない。
好き嫌いの対象物としてのリンゴであったり、食べる対象物としてのリンゴなのです。
つまり、好き嫌いと言う好意の主体であったり、食べる行為の主体であることを表す[は、が]に対して、食べる行為の目的としての対象物も、[は、が]で表しているのです。
さて、この主語と言う語は、言葉が現実の行為や感性を表していると言う理解なのです。好き嫌いの感性や食べる行為に対して、その主体を言葉としては、主語として表しているのです。
[好き、嫌い]という感性に対して、[私]の好意として、好きや嫌いであり、嫌われるものとしてリンゴが対象物として規定されている。
私は、リンゴが嫌いです。
私が、リンゴが嫌いです。
私は、リンゴは嫌いです。
私が、リンゴは嫌いです。
嫌いと言う好意の主体である[私]は、現実の感性であったり、食べる行為の主体を表しているのだが、その現実性にたいして、言葉を使う私達が、その現実を如何に把握して捉えて、言葉にしているかが、表されているのです。
それが現実の有り方に対応していても、その上に言葉を使う私達が、如何に認知して居るかを表していると言う事なのです。
食べる行為に対して、一体誰が食べるか、何を食べるかは、確かに現実の有り方に対する把握だが、さらに言葉にして表す把握になると、食べる主体で完結するのではなく、飽くまでも言葉として表す認知のレベルで確定しなければ成らない。
私は、リンゴが嫌いです。
と
私が、リンゴを食べました。
に対しては、嫌いの主体、食べる主体として[私]が、嫌い、食べるの対象物としてのリンゴが、確定しているが、その主体である[私]にある違いを[は、が]で表しているのです。好意や行為、活動の主体だけなら、現実の世界の中で言葉を使用している事で完結しそうだが、しかし私達は、現実の世界に存在しながら、言葉を使って、話し手や聞き手が思いを表している事が、言葉の差異に示されているのです。

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私は、リンゴを食べました。・・・(1)
私は、リンゴは好きです。
私は、リンゴは食べません。・・・(2)
私は、リンゴは嫌いです。 ・・・(3)
私が、リンゴが好きです。
私が、リンゴは食べました。・・・(4)
[好き][嫌い][食べる]と言う感性や行為の主体である[私]は、言葉を支える現実の行為を、主体と活動として言語化したものと言える。言葉として主体を表すのに、[私は、私が、]として、[は、が]を付けて表す。しかしその[は、が]が付いた語であっても、けっして主語を表しているとは言えない使い方があるのです。
それが[私は、リンゴが嫌いです。私は、リンゴは嫌いです。]の様に、[は、が]付いているから、その語が主語になるのではない。
好き嫌いの対象物としてのリンゴであったり、食べる対象物としてのリンゴなのです。
つまり、好き嫌いと言う好意の主体であったり、食べる行為の主体であることを表す[は、が]に対して、食べる行為の目的としての対象物も、[は、が]で表しているのです。
さて、この主語と言う語は、言葉が現実の行為や感性を表していると言う理解なのです。好き嫌いの感性や食べる行為に対して、その主体を言葉としては、主語として表しているのです。
[好き、嫌い]という感性に対して、[私]の好意として、好きや嫌いであり、嫌われるものとしてリンゴが対象物として規定されている。
私は、リンゴが嫌いです。
私が、リンゴが嫌いです。
私は、リンゴは嫌いです。
私が、リンゴは嫌いです。
嫌いと言う好意の主体である[私]は、現実の感性であったり、食べる行為の主体を表しているのだが、その現実性にたいして、言葉を使う私達が、その現実を如何に把握して捉えて、言葉にしているかが、表されているのです。
それが現実の有り方に対応していても、その上に言葉を使う私達が、如何に認知して居るかを表していると言う事なのです。
食べる行為に対して、一体誰が食べるか、何を食べるかは、確かに現実の有り方に対する把握だが、さらに言葉にして表す把握になると、食べる主体で完結するのではなく、飽くまでも言葉として表す認知のレベルで確定しなければ成らない。
私は、リンゴが嫌いです。
と
私が、リンゴを食べました。
に対しては、嫌いの主体、食べる主体として[私]が、嫌い、食べるの対象物としてのリンゴが、確定しているが、その主体である[私]にある違いを[は、が]で表しているのです。好意や行為、活動の主体だけなら、現実の世界の中で言葉を使用している事で完結しそうだが、しかし私達は、現実の世界に存在しながら、言葉を使って、話し手や聞き手が思いを表している事が、言葉の差異に示されているのです。

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