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zoom RSS 貨幣について考えながら,思考方法を確認する(67)

<<   作成日時 : 2008/08/14 21:28   >>

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特定の社会の中では,その特定性に規定された多様な振舞が成立するのであり,此処では生存に必要にものとして生産された諸物は、その生存に必要なモノを消費する為にまず、交換と言う形態をとるのです。つまり、諸生産物の交換は,人々の相互の働きかけの特殊性の現れなのです。人々が自然に働きかけて自らの生存を作り出す必要物を作り出す事は,自然に対する働きかけなのだが、同時に人々相互の働きかけであり、人々の有り方によって規定される社会的な関係なのです。此処ではその人々の特定の社会的有り方が,生産物相互の交換として表れているのです。

人々の相互の働きかけとしての社会性・・・・・人々の投下した労働・・・・投下物としての生産物


20エレのリンネル=10ポンドのコーヒー ・・・・・・・(1)
と言う交換形態にあって、私が持っているリンネルは価値としてあり、その価値の実現が、10ポンドのコーヒーを手に入れる事なのです。この交換形態の中では<リンネル20エレ分>の価値は,使用価値コーヒー10ポンドとなるのです。この形態の中では、1ポンドのコーヒーが、2エレリンネルの価値の姿となる。
当然逆の関係からすれば,自分が欲しい使用価値リンネルは、20エレ分が10ポンドコーヒーの価値の現物姿となっているのです。

生産の段階から他者の為の使用価値としてある諸生産物は、そこに投下されている具体的労働の社会的側面が,交換関係に内在する実体として、価値を形成する事になる。個々の生産物に投下されている社会的側面としての具体的労働を実体として、個々の生産物が交換関係を形成するのです。この交換関係を価値といい、(1)は、その価値関係を表す価値形態なのです。

(1)にあるモノは、リンネルとコーヒーと言う使用価値として別々のモノが社会的具体的労働を実体とした関係を表している。価値は、この関係レベルの事であり,その関係の両端のそれぞれに自らの価値を表す相対的価値形態とその価値を表す素材となる等価形態とになる。

価値論は、交換を対等な位置から俯瞰する事であり、交換されるリンネルとコーヒーとは、その使用価値としては別々のモノでありながら,そこに投下されている労働の社会的側面を共通にする事で、両者は同一の色を持つものとなっているのです。つまり、所有者にとっては、自分のリンネルと自分が欲しいコーヒーとは、その役割が違うのであり,コーヒーはその有用性によってこそ手に入れたいものであり,リンネルはそのコーヒーを手に入れる為の手段となつている。しかし俯瞰としての価値論は、両者を対等なものとして、扱うことで,リンネルとコーヒーと言う使用価値としては別々のモノが等しくなるものとして、共通するモノをさがしだすのです。
俯瞰としての価値論は,交換を単に<欲望の二重の一致>と言う欲望論で語るのではなくて,客観的にある構造として捉えようとするのです。
そこで俯瞰としての価値論を踏まえて、所有者の立場からリンネルとコーヒーを見る事で、価値論で捉えられている交換の中に成立している共通性としての具体的労働の社会性が、ここでは探求の主体となるのです。
つまり、価値論がなければ、20エレのリンネルと10ポンドのコーヒーと言う使用価値とは別々のモノが、交換される事で表す両者の同一性が捉えられないのです。


リンネルに投下された具体的労働が同時に社会的労働である事が,交換を導く。その社会的労働の特殊性は、あくまでもリンネルと言う個別とコーヒーと言う個別の間にある関係を形成する実体としてであり、その関係を価値として規定するのです。

リンネルにもコーヒーにも価値があるから交換されると言う時、リンネルとコーヒーとの間の交換関係を価値として捉える事と実体としての社会的労働で捉える事の区別が出来ていないのです。価値と言う関係を形成するものが実体であり、ここでは特殊性にある社会的労働を実体とすると<リンネルが自らの価値を、相手であるコーヒーの使用価値を素材にして表している>と言う時、リンネルに投下されている社会的労働の特殊性と言う規定は、、価値関係を介して、投下されているコーヒー具体的労働によって表されると言うのです。
つまり、リナネルに投下されている具体的リンネル労働の特殊社会性と言う規定は、さしあたってまだ言葉だけであり,交換の手段としてある事を、其の言葉であらわしているのです。
具胃的なリンネル労働は、リンネルの有用性として示されているのであり,リンネルの使い道によってリンネル労働の具体性が分かるのです。それに対して、交換手段としてのリンネルの場合,リンネル労働と言う具体性が、所有者にとっては具体性としてあってはならず,あくまでも他者に手渡される事で初めて有用になるのです。

私的所有として分離されている社会とは、人々が相互に働きかけて生産した生産物が各人々の所有物となる事であり、具体的リンネル労働の投下物である事と同時に私的所有としての社会的労働の投下物であるのです。この後者の労働を実体とした交換関係を価値と言う事になる。ちなみに前者の具体的リンネル労働の投下物を実体とした関係を、使用価値と言うのです。
此処では,生産物に対した私的所有にある人々の、相互の働きかけとしての社会関係としては、一つの生産物に相互に働きかけても,生産物の所有として分離されるのです。つまり、人々の存在に対して、その相互の働きかけとしてある社会関係は、人々の存在の特性によって規定されたものとしてある。その人間の存在の特性によって規定される社会関係とは、生きた労働の投下物である生産物相互の、その交換と言う形態として表れている。
その形態は、リンネル20エレとコーヒー20ポンドと言う数量同士であり、投下された実体としての社会的労働を質的同一とした量なのです。

そこで問題は、最初から社会的労働と言う質的同一があるのではないと言う事です。交換関係を形成する実体として社会と的労働を規定するが,これはあくまでも交換を俯瞰の位置から見下ろして得られた知なので、社会性が、現場ではどうなっているのか,が形態論で明らかにされるのです。
俯瞰では、リンネルもコーヒーも全く同一の特徴として捉えられるのであり,所有の立場から見る事で、同一に隠れている差異が示されるのです。俯瞰では、リンネルとコーヒーとを関係として捉える事で,両者に共通の、実体として社会的労働が捉えられたのです。リンネルとコーヒーとが交換されている事を踏まえて,交換を関係ーー二つの個別があり、その間に関係が成立するーーと捉える時,関係はまだ言葉だけであり,その関係ある二つの個別に内在するモノが、両者に共通するものとして捉えられる時、そこには実体があり,その実体を介して、リンネルとコーヒーに関係が成立していると理解するのです。
つまり、関係と言う言葉をさらに近くで見る時,そこには二つのモノに実体と規定される両者に共通するモノが確認されているのです。
これが認識しようとする対象に対して関係と言う概念で捉える事なのです。その関係概念を踏まえると、二つの間にある実体、共通性としての社会的労働と言う言い方は、単に一般的な、どんな時代、どんな社会でもあてはまる事を言っているだけなのです。

単に二つのモノがあり,私にはコーヒーがなくて、欲しいと思っているから、私のリンネルと交換で手に入れようとするのです。この時、私も相手も,自分にも他者にも必要であるものとしての生産物を生産していて、たまたま私的所有として社会が出来ているので、欲しいモノを交換物により手に入れる事になるのです。
この時、一般的に見下ろしている限り,私的所有として分離されている社会では、必要な生産物は、自分の所有しているモノとの交換によると言う事だけだが,しかし内部にはいれば、欲しいコーヒーを手に入れるとは、一家四人が10日分必要とする量を手に入れる事であり,その必要量に対して、私のリンネルをどのくらいの量で交換に出せばいいのかと言う事なのです。
必要量は,生活の内実によるのであり,けっしてデタラメな量ではないのです。

リンネルとコーヒーの場合、確かにお互いに必要量同士が交換されている様にみえている。
しかし私の所有しているリンネルは、私にとって交換の手段であるが、相手からみれば、彼の欲しい量となっているのであり、お互いに必要量が決まれば,交換が完了すると言う事なのです。
私のリンネルは、私にとってはその有用性を自ら実現してはいけないのであり,あくまでも交換の為にある。他者の為にあるのだが、しかし此処では、他者が必要としているリンネルではなくて、私が他者の持っているコーヒーを手に入れる為の交換手段であると言う事なのです。
私の所有しているリンネルは、その生まれから使用価値としてあるのだが、しかし私的所有として分離されている社会の中では,交換によって初めて継続的に自分の欲しいモノを手に入れる事が出来ているのです。

最初は自分たちに必要なリンネルなりコーヒーを生産していたが、生産能力が向上するとコーヒーにも剰余分が出て来ると、それを他者が使用とするのです。誰もが剰余分が増えて来ると、その使用価値の側面からすれば,他者が使用する事を前提に所有している事になるが、しかし自分が他者のコーヒーを手に入れる為の交換手段として利用しようとするのです。余剰分が増える事は、そのまま沢山の人々に使用されると言う事だが,私的所有として人々の間が分離されている社会では、使用価値として有用であっても,他者の所有物を手に入れる為には、特定の方法が無ければならない。それが交換と言う事なのです。

リンネルの交換手段と言う側面は、当然それが使用価値として有用でなければならないのである。しかし有用である事は、所有者にとって実現されてはならず、あくまでも他者が実現するものなのです。使用価値リンネルが、他者のコーヒーを手に入れる為の交換手段となるのは、投下されたコーヒー労働の社会的側面によって規定されるのです。
その投下された労働の社会的側面と言う規定は、生産物相互が一定の数量同士の交換として成立している事です。
つまり、私的所有として分離されている社会では,それぞれが生産した生産物は、自分たちが消費する事で終わっている。共同物として生産される社会では、生産物は全ての人々が消費する事になる。それぞれの人々が生産している生産物は、使用価値として必要とする全ての人々にとって有用なのだが,社会構造としての私的所有の社会では,使用価値リンネルとコーヒーとが、一定の数量として交換されている事なのです。
価値形態は、生産物が個別的、単独である使用価値のレベルではない,相互の交換として一定の数量同士として表れている事なのです。

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