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zoom RSS 言葉を伝える事(17)

<<   作成日時 : 2009/07/19 21:05   >>

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ラッセルのパラドクスー世界を読み換える哲学ー  三浦俊彦  岩波新書

隣のMさんは、存在するか
今貴方のすぐ近くにいる人を指差して、名前を呼んでみよう。その名前は、固有名として機能しただろうか。その名(M)を、貴方は、何を指すために使ったのか。おそらく、、ある時貴方と知り合い、それからずっと互いを認知し、今此処に至っている。Mさんと言う一人の人間を指したつもりだろう。だが、そのような一貫した連続的実体が実在しつづけたと言う事を何故いえるのか。それは貴方自身の感覚や記憶に言及したた記述によってである。Mさんとは、貴方の意識の履歴を参照する事によって構成された「論理的虚構」と言うべきものである事が分かる。
つまり、固有名Mを使って貴方が確実に指示出来ているのは、その瞬間のMさんの断片だけである。すると、Mと言う名前が、この瞬間の人物ショットだけをさすのではなくて、完全な人物履歴を指すつもりで使われているなら(日常言語で私達は固有名詞を普通そのつもりで使っているはずなのです)、Mは固有名ではなく、確定記述と認めざるをえない。
過去そして未来の人物ショットの集りとして構成されたものが、Mさんと言う人物だと言うことです。


ここで使われている理屈は、私達の日常の言語意識からすれば、ある特定の人物にMと言う固有名がある時、その人と町ですれ違えば<今日は、Mさん>と声をかけるが、それは、ある特定の人物が一貫した連続的実体であるから、それに対して、固有名Mを使っているのだと言うことです。その理屈に対して、事物は全て流動的で、絶えず変化しているので、一貫した連続手的実体など無いのだから、連続的変化の一瞬一瞬を記述している言語しかない。
固有名も、一瞬一瞬として切り取った物を確定記述するのだと言うことです。
<今Mさん、次にMさん、又次にMさん>と呼んでいるが、一瞬を切り取ったA点で、Mさんと呼ぶのに対し、その次にはもう変化しているのだから、その人をMさんと呼ぶ訳には行かずに、別のNさんとしか呼べない。しかしその人が、次の時点では変化しているとして、人間でなくなり、甲虫になっているかもしれないと言う変化ではないのは明らかだ。
彼は絶えず変化しいるが、しかし人間種としては、同一であると言うことです。
彼は見違える様に変わったが、しかし甲虫になって変わった訳ではない。
ハンサムな顔立ちで、仕事をばりばりこなす企業戦士になっていて、学生時代の馬鹿面をした間抜け面とは大違いだと言われる事はある。しかしその様な変化であっても、彼は、昔の様な友人ではないかも知れないが、Kさんと呼ばれる事には変わりがない。
人々は、あるいは生き物は、すべてが、絶えず変化するのであるが、しかしその変化は、人間種としては同一であり、その同一性の上で、日々形態の変化が有ると捉える事なのです。
全てが変化している事なら、一瞬一瞬があるだけで、新しくも古くもない今の不連続があるだけなのです。

全てが変化しているなら、絶えず出会うものは、いつもあたらしく、前にも出会った事があると言う様なものではないのです。まずAがあり、Aがなくなり、新たにBが生まれれば、それは変化ではなく、ただ新しいものが出て来たと言うことです。
ただこの新しさも、Aが占領していた場所Zを、新たなBが占領すれば、占領する主体が変わったと言う事になるが、しかし場所Zは、以前のままになる。
つまり、変化は、必ず変化しない同一と対で成立しているのであり、だから事物は必ず変化すると言うとき、変化しない同一を基準にした時、初めて変化であると言えるのです。

Mさんが生まれ、幼児から子供、青年、成年、大人と変化して行っても、蛾が蝶になる様な変化で無ければ、同一性の視点がそこには成立している事になる。
例えば、彼のDNAは生まれてから死ぬまで変わらないと言う様に。
あるいは、H2Oと言う水分子に対して、その水分子の運動を増加させたり減速させたりする外部からの熱エネルギーにより、固体としての氷が解けて、液体としての水になり、さらに液体が気体としての水蒸気に変化する事に対して、その分子のレベルでは、H2Oの構成は変化しない、同一であるが、固体、液体、気体と言う形態のレベルを変化と言うことになる。
この同一である分子のレベルは、何か絶対理念とかイデアの様に形而上学的なもののようではなく、あくまでも外部の熱運動に影響される現実的な存在です。
分子H2Oのレベルでも、液体としての水に対して外部から熱エネルギーを受ける存在として孤立したイデアではなく、れっきとした相互作用を持つ物体なのです。水分子H2Oが、外部からエネルギーを受けると、分子自身の運動準位に変動が起きて、液体の姿になったり氷の姿になったり、水蒸気の姿になったりするのです。
この三つの形態は、運動する水分子H2Oの運動エネルギーの量の違いであり、現実には必ずどれかの運動エネルギーとしてあるのです。つまり、水か氷か水蒸気かと言うことです。

液体としての水に対して、水分子は、その液体の内部に深く潜行している何ものかであると言う発想ではないのです。その液体と言う有り方は、多数の水分子が、相互に結合する時の、特定の結合の姿なのです。
水分子の多数の集合体である三つの形態に対して、H2Oと言う分子構造は変化しないのであり、水の電気分解は、その分子構造を、酸素分子と水素分子に分離する事なです。

ここで多数の水分子の結合の姿と言う時、どんな結合かを問うていないが、しかし今の外気か有り方からすれば、目の前にあるこの液体としての水が、その結合している姿であり、もっと寒くなって、摂氏0度以下になれば、水は氷へと変化するだけなのです。
問題は、その結合の姿である液体としての水を、酸素分子と水素分子の結合である水分子・H2Oの結合で解き明かしている事なのです。
つまり、液体としての水に対して、酸素分子と水素分子では、液体とは連続しない物として考えられるのだがーー分子を現に目の前にある水の、その内部に隠されている要因の様に考えてしまうーー水分子と言う視点は、水素分子2個と酸素分子1個との結合と言う水分子の構造から捉える事で、氷や水蒸気や水の有り方を解明したのです。

常温常圧の下の水分子ーー>液体としての水
高温常圧の下の水分子ーー>気体としての水蒸気
低温常圧の下の水分子ーー>個体としての氷
H2Oと言う酸素分子と水素分子の結合が限定され、その一個一個の水分子が、多数結合する時の結合状態の違いが、上記の三つの様態なのです。
その三つの様態に対して、水分子としては、H2Oと言う結合体である同一性を示すのです。
三つの様態と言う違いに対して、そしてこれは現に目の前にしているモノとして、そこに有るのに対して、しかし違いにも関わらず、皆同一である事が、H2Oで表すのだが、この同一は、目の前にあるモノと言う様にはなっていないのです。
それは同一としてのH2Oと言う有り方が、モノの分子と言うレベルの知を得た事で、個々の知としての水素、酸素、窒素等と、その原子の結合としての分子の知を前提にして、初めて目の前の液体としての水の構造、水分子のレベルが確立されて、同一性の範疇がかくりつしたのです。
違いを知る事は、いつも目の前の出来事としてあるが、その違いに関わらず、同一性のレベルがあると言う知識は、簡単に成立している訳ではない。
例えば、容量が同一で、横に長いものと縦長との二つの容器があって、縦長の容器の中の水を横長のものにいれ換えた時、水を単に入れ替えただけだから、水量に変化が有る訳ではないので、同一の容量であり続けるのだが、しかしその同一の容量と言う認識が成立するのに、克服しなければならないのは、容器の形による違いに関わらないと言う事です。両方の形の違いに左右されない事であり、容器に入っている水の量の持続と言う把握なのです。

A量の水を縦長容器にいれても、横長容器にいれても、その容器の形の違いに左右されない事、つまり特定の形のつくる容器の内部の空間を容量の入る共通の空間として捉える事で、同一の容量空間として基準かすれば、容器の外観の形の違いに対して、ただ量の違いとして同一化できるのです。

A、B、C、Dと言う個別としての区別は、違いとして直接接している事で捉えられているが、その個別にある一定の性質が、共通性と言う視点で捉えられた時、目の前の此の違っているモノが、同時に同一であると言う私達の思考が成立したのです。

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