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思考への道
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日々の感性を問う事で、思考の論理構造を自分の前にさらけだすのです。
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「は」と「が」の助詞を考える(2)

2018/02/04 18:59
「まことが、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。」

今回の話しての次郎さんの立場から考えると、まことは、皆の一人で、そこには皆の集まりが前提されていて、その集まりから、一人としてまことが取り出されているのです。
皆の集まりを前提にしているので、まことではなく、「三郎が、疲れているので」となるのです。
皆の中で、一人としてのまことが、疲れているので、彼の為に、一休みをとったのです。それを「が」で表す事に成る。
これは比喩としては、多神教の一つの神で、彼を取り上げる事は神としてなのだが、然し他の神が前提にされていて、この前提に対して、この神が主語になったりしているのです。

それに対して
まことは、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。
の「は」は、まこと自身だけの問題で、疲れているのも、疲れを取るための一休みも、自身だけの出来事なのです。
これは、一神教の神で、他の神が前提になる訳ではなく、主語として働く時も、この神の万能の一つが示されるだけなのです。

少しばかりのおかしさがある。
そこで「まことが、集団で歩いている皆が疲れているから、一休みしようと提案した。」
となると、主語としてのまことの遣ろうとしていることは、疲れている皆への一休みの提案なのです。
疲れているのは、集団の皆なのです。その皆が省略されているから、おかしいと解釈する。

まことは、皆が疲れているから、木陰で一休みしようと提案した。
まことが、皆が疲れているから、木陰で一休みしようと提案した。
「まことが、・・」「まことは、・・」は、少しばかりの意味の違いが表されている。
前者は、まこと自体の提案だと言う事になり、後者は、皆の一人であるまことの提案と言う事になる。一休みしようと言う提案は、まことの遣っていることには違いないが、「は」は、まことの個としての提案をあらわす助詞となり、「が」は、諸個体を土台として上で、その一つとしてまことが選択されている。

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「は」と「が」の助詞を考える(1)

2018/02/02 14:42
知っている様で、知らない
日本語てにをはルール 石黒圭・中経文庫

「隼人はボールを投げると、義人がそれをジャストミートした。」
この文を可笑しいと感ずる。
その可笑しさは、「は」の働きとして、「は」は、文の最後を修飾するのだから、当然、隼人とジャストミートが関連されるはずなのに、ジャストミートしたのは義人成っている。
この文の可笑しさをなくすには、「隼人が、ボールを投げると、義人がジャストミートした」に成れば、正しい文と言える。
「が」は、近くの文を修飾することで、正しい文を作る事になる。

文のルールとしては、「は」は、主語に遠い位置を修飾し、「が」は、近い位置を修飾すると理解される。

「まことが、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。」
何人かのグループで移動している時、中の一人であるまことが、疲れていたので、まことを含む皆で一休みしようとリーダが提案して、一休みした。「した」の命令は、ここでは表示されないリーダーと言う事になるのです。
それに対して、「まことは、疲れていたので、木陰で一休する事にした」
となると、まことに注目するのであり、まこと自身の判断であり、其の判断の結果として、一休みが実行されたのです。確かに「まことは、」の「は」は、遠い位置の「一休する事にした」の「した」にかかり、「した」の命令は誰かと言う事であり、それは「まこと」と言う事になる。

まことは、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。
 まことに疲れがあるからか、一休みする。

まことは、皆が疲れていたので、木陰で一休みする事にした。
皆に疲れがあるから、リーダーであるまことが 「 一休み」と号令をかけ、そして一休みの実行
集団で歩いている事が前提で、皆は疲れている者であり、まことはリーダとしての働きなのです。
「まことは、疲れているので、一休みする事にした」とは、あくまでもまことだけの問題だが、「まことは、みなが疲れているので、一休みする事にした」となると、つかれは、皆の出来事になり、まことはリーダーとしての命令者となるのです。

まことが、疲れていたので、木陰で一休みする事にした。
木陰で一休みしたが、一休みの原因は、一休みした者達の一人である、疲れていたまことにある。

まことが、みなが疲れていたので、一休みする事にした。
一休みしようとした言い出したのは、皆の一人であり、リーダーであるまことなのです。
まことが・・・・
         皆が疲れていると言い出したから、
         では木陰で一休みしようと命令した。
まことが・・・・
         疲れているから、自分の疲れの判断から
         木陰での一休みの命令を出した。

前者は、一休みの命令の言葉をまことが出しているのに対して、
後者は、疲れていると言う言葉をだし、一休みしようという言葉をだしている。

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禅の言葉(11)

2018/01/09 22:25
道元・読み解き事典・大谷哲夫「編著」 柏書房

二世紀中頃
二世紀ごろインドより、中国に伝来。中国固有の道家の流れを組む神仙家と結びつき、やがて超自然的な傾向を示す宗禅者の一団となった。
しかし中国固有の土着的な現実主義に呼応するものとして、坐禅などを実践して、経論中心から坐禅などの修行などの実践に移行した。

中国仏教は、都市を中心的な拠点として、漢訳仏典の解釈等の上に成り立つ理論仏教が横行し、信仰と修行と実践の面が稀薄となっていた。

八世紀
馬祖道一----百丈懐海
百丈山において中国では初めて禅院を独立、禅の修行に即した禅院の独自の規則を創出し、「百丈清規」を作った。
この中で、百丈は禅院の自給自足を計り、作務を衆僧の必修の「行」として位置づけた。
この清規の成立により、初めて独立した禅宗寺院の、諸制度、法堂・僧堂・方丈などの儀式の制度が確立し、自給自足の禅林の生活の基礎が置かれる事となった。

形而上学を否定し、日常への徹底を説く以上、「悟り」を生きている禅匠の日常をそのまま記録に留める以外に、真理を表現する方法はなくなったのである。
馬祖以降の禅では、禅匠は弟子に対して「悟り」を生きるように、あるいは、現に生きている「悟り」に気づかせるよう指導し、また、相手がそれを生きているかどうかを確かめる必要があった。そのため、師弟の間、あるいは門弟間でしばしば「禅問答」が行われ、それを記録した「禅語録」が編輯(諸種の材料を集め、書物・雑誌・新聞の形にまとめる仕事・編集・編纂)されるようになつた。

九世紀・晩唐
北宗禅の消滅ー南宗禅の繁栄
潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗
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禅の言葉(10)

2018/01/05 18:47
中国禅宗の流れ
達磨ー慧可ー僧璨ー道信ー弘忍ー慧能

慧能ー<南宗禅ー南嶽ャ譲
神秀ー<北宗禅

南宗禅ー教外別伝・不立文字・直指人指・見性成仏
教説の外、体験によって別に伝えるモノこそが禅の真骨頂であり、経論などの文字に依らず、ひたすらなる坐禅によって釈尊の悟りに至るのだと言う、立場

南嶽懐譲によりこの立場をさらに推し進める方向
馬祖道一・・・・馬祖が熱心に坐禅をしていると、師の南嶽が問う
         (南)君は何の為に熱心に坐禅をしているのか。
         (馬)一日でも早く仏になりたいからです。
そこで師は、黙って地面に下りて、瓦を拾い、磨き始めた。
それを見ていた馬祖は、不思議な思いで師に尋ねたのです。
師よ一体何を成されているのですか。
師が答えるのです。
磨いて鏡にするのだよ。
馬祖は言う。
瓦は磨いても鏡には成りません。

瓦にはどんなに磨いても、鏡になる事は無い。可能性として、鏡になる性質を持っていないから。それに対して人は、仏に成る可能性があって、その可能性が日常の営みで仏に成るのです。
その日常の営みの一つが坐禅であって、その大枠を理解せずに、坐禅だけに注目して取りあげてしまうと、悟りをえる手段になってしまうのです。つまり坐禅も日常の営みの一つでしかないが、ただ坐禅の行為に特性が有ると言うのであり、その特性に注目されるから、悟りを得る手段と位置づけてしまうのです。

「平常心是道」とは、「仏性」のような抽象的なものではなく、我々が普段生活していて抱く喜怒哀楽の気持ちそのものが「真理」として絶対的なものだという主張、「大磯大用」とは、人間のあらゆる営為はそのまま完全肯定されねばならないという主張であり、我々は、本来、「真理」そのものだとする思想を表現したものである。これは、東山法門以来の、日常生活と「悟り」を分離してはならないという思想の徹底であったといえる。
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パラドックスの理屈(1)

2018/01/01 16:45
時間のパラドックス

過去をA、現代をB、未来をCとする。
現代Bに居る私が、タイムマシーンで過去Aに行く。
過去に行った瞬間、私と云う存在が過去の社会に関わる事で、過去はかっての過去Aではなく、私が居る過去「A+私」となる。

この時、現代Bにいる私にとって、過去Aと過去「A+私」とが比較され、変化してしまった過去Aと言う発想をする事になる。
過去は単なる過去Aではなく、過去「A+私」と言う過去となる。

私が過去Aに行ってしまうと、現代Bでの私が、過去Aと見ていたモノは、私が存在する事で、過去「A+私」と言う変化した過去になってしまう。過去Aは、出来上がった完結したモノなのに、私が存在する過去「A+私」と言う私が生きる過去と成ってしまう。

つまり、過去「A+私」とは、私の今生きる現代としての世界になってしまうので、現代Bにいる時に、完結した過去Aとして扱っていた世界が、私の活動で変化する世界となってしまう。

私が現代Bにいる時の世界は、飽くまでも私の活動が関わっているが、その私が過去Aに移動してしまうと、私の居た現代Bは、私の居ない現代「B-私」と成ることで、現代Bの世界も変化してしまう。
つまり、過去も現代も未来も、現代Bの私の存在無しに成立しないのであって、過去Aの出来事に関わると過去が変化してしまうと考えるのではなく、私が現代Bから過去Aに移動しただけでも、現代も過去も私の存在の変化が、世界を変えてしまうのです。
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感覚知覚(1)

2017/12/24 23:15
リンゴの赤い表面
赤色は、そのリンゴの表面の性質であり、私達はその赤いという性質を赤色として知覚する。

リンゴと言う物体に、赤いという性質があって、それを視覚器官で赤色として知覚する。此処にはリンゴと言う物体の性質に赤色と言う性質が有るのです。赤色はその物体の性質です。

此処では「赤色」と言う同じ言葉を使用しているが、リンゴの表面の性質としての「赤」と、視覚器官が認知している「赤色」と言う区別が有るはずです。
リンゴの表面の性質に対して、人間の目は「赤色」と言う認知をしているのです。
私達は目の前のモノを赤いリンゴとして、見える通りに見ている。
この時目は、目の前のその場所に「赤い色のリンゴがある」と見ている事に成る。

その目の当然性に対して、一つの思考を行うのです。
私がその場所にいなかったり、瞼を閉じたりしている時、その場所に赤いリンゴは存在しているかと。瞼を閉じていれば、其処が見えていないから、赤いリンゴがあるとも、ないとも結論出来ないのです。
しかし、瞼をあけて赤いリンゴが有るのを見ていると、客観としてそこに赤いリンゴが存在しているなら、瞼を閉じている間も客観としての赤いリンゴが存在していると言えるのではないか。
目を明けている他者に見えている事を証言して貰い、私が瞼を閉じている間も赤いリンゴが存在し続けていると結論づけるのです。

しかし他者の視覚経験も、やはり瞼を明けていて成立して居るのであるから、赤いリンゴが有る言えるのであるなら、そこには瞼を閉じている時の客観の世界は、どんな事になっているのかと言う問いがありうる。
それは目の前の其処に赤いリンゴが有ると言う視覚認知に対して、リンゴ存在の客観性を問う事なのです。あるいは瞼を閉じている時、其処のリンゴに生じている出来事を明示する事なのです。

リンゴの表面の性質に対して、赤色と認知しているが、しかし認知としては、飽くまでもレンズとしての眼球から入る光が、網膜を作動させて、網膜の活動を脳が赤いリンゴと判断しているのです。
この時、リンゴが赤で有ったり、青で有るのは、リンゴの表面の性質によるのだが、その性質の違いとは、その表面に反射する光の波長の違いであり、波長の違う光が、網膜を作動させる事で多様な色として、脳が判断するのです。

つまり、リンゴの表面の性質が、そのまま色ではなく、ただ特定の波長の光を反射するのであり、この波長の光が、眼球というレンズを通して網膜に焦点を結び、網膜が作動する事で、脳が色として処理をするのです。
特定の波長の光が、リンゴの表面に反射するが、その反射が色ではなく、網膜からの活動を脳細胞が色彩として処理するのです。
つまり、リンゴの表面に反射した特定の波長の光は、網膜を作動させる事で、脳が色とするのであって、だから私達の身の回りが多様な色彩にあふれているとは、私達が身の回りを色彩として認知して、客観を色彩で組み立てると言う、人間の意識的働きなのです。

人間には視覚器官がある事で、世界を色彩として認知し、その色彩を組み立てる事で、世界に対して意識的活動を実行するのです。
意識的と言う項目が独立して有るのではなく、五感に依る認知により、組み立てられた脳が、その組み立てを介して、世界に関わる事が意識なのです。
私が目の前に見ているモノについて、赤いリンゴを見ていると言うが、それは其処に私が見ていない時にも、赤いリンゴは存在し続けているのだと言う思いが働いている。見ていない時にも、赤いリンゴは存在していると。

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禅の言葉(9)

2017/11/29 23:51
ダイヤモンドの原石は、ただその表面が研磨されていないだけであって、ダイヤモンド性とは、原石自身全体の性質で、決して内部に隠された性質なのではない。
つまり、ダイヤを覆う外皮を研磨して取り払えば、そこにダイヤと言う本体が現れると言う理屈。
しかし外皮を研磨する事で、外皮は光を乱反射する表面となる。これはダイヤと言う本体が現れたのではない。外皮の形態が変わっただけであり、原石でもダイヤはダイヤなのだが、原石の外皮に対して、研磨された外皮は、光の反射が規則性を持つ事で、輝く宝石と成るのです。
ダイヤの原石は、原石である限り、輝かない只の石なのだが、その外皮を規則ある外皮として研磨すると、光り輝く宝石となる。
この時、原石から外皮を取り外して、其処に残ったものが、ダイヤなのではなく、反射する面の組み合わせとして研磨する事が、原石を宝石とするのです。

つまり、覆っている外皮を外すと其処に宝石が現れるのではなく、規則的な、外皮に対する研磨が、その研磨の度に輝く宝石とするのです。この一つ一つの研磨のはたらきが、原石を宝石にするのです。一つ一つの研磨による面が、その度に宝石の姿をあらわすが、只程度としての宝石だという事に成る。

仏性ある人間は、坐禅と言う実践で光り輝く宝石となる。坐禅をしなければ、仏性があっても、光る宝石には成らない。生まれながらの外皮では、仏性ある存在であるとしても、仏性あると自覚されない。
坐禅は、原石を規則的に研磨する事で、初めて宝石となる。原石に内在する何モノかが有るから、宝石となるのではない。規則的な研磨が出来るから、光り輝く宝石となる。ダイヤの原石は、その性質から規則的な研磨が出来るから、結果として光り輝く宝石になった。

原石に内在する仏性があるから、仏になったのではない。坐禅という実践が、仏の実践となるのです。
原石に内在する仏性が、そのまま外部に現れるのではない。原石の外皮を研磨するという規則的な実践が、本体を光り輝く宝石にするが、それは内在する本体が、表に現れたのではない。
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禅の言葉(8)

2017/11/26 22:18
道元の一つの疑問
ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」

人間が持っている仏性とは、仏に成る為の可能性で、坐禅等の修行はその可能性を現実としての仏にする現実化行為と言う理屈。

仏性を可能性で考えるのは、次の様になる。
ヒマワリの種には、環境の働きかけで、芽になり、茎になり、葉になるモノがあって、そのモノが成長して実になり花になる。種の中にあるそのモノの有り方を可能性としての存在と言うのです。
実や花や茎になるで有ろう、その種の存在の側面を、可能性と言う。

種に対する光や水分や温度と言う種に対して、外部である環境による働きかけで、開花する可能性の性質があると言う。外的環境によるヒマワリの種に対する働きかけは、種の持つ可能性を現実にする事になる。
ヒマワリの種が、成長して花になるのは、自然であり、あえてそれを種が花になる可能性を持っているというのは、種の可能性の側面に、外的環境が働きかる事で、初めて開花するからなのです。種と言う存在に対して、種の外部存在を区別して捉えるから、可能性と現実性と言う理屈を立てる思考が生まれる。
さて人間に可能性としての仏性があり、その可能性の側面に坐禅という身体実践を働きかけると、可能性は現実化して仏に成ると言う。
これは鉱物としての石にダイヤモンド性が内在しているが、研磨によってダイヤモンド性が外部に現れると、外部に現れたダイヤモンド性によって、光を反射する事で、光り輝くダイヤモンドが成立するのです。

原石としてのダイヤモンド石は、その表面を光が反射する特定の面として研磨されるのです。その研磨面は、ダイヤモンドと言う性質によって決定され、ダイヤモンドと言う性質だから、研磨によって形成された面が光の反射を綺麗な反射として形成する。
固有のダイヤモンド性、原石に内在するダイヤモンド性とは、原石の中に沈み込んでいる何かではなく、光の反射する表面の研磨面の出来具合が、ダイヤモンドという性質に規定されている事で、飽くまでも光の反射する表面が、原石の性質によると言う事で、研磨される面の出来具合として現れるのです。

原石の内在性としての仏性は、原石のままでも仏性なのだが、それが光り輝くダイヤモンドであるのは、研磨面の構成が光の反射角度に支配されるように、成っているからなのです。
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かがみ論(3)

2017/10/29 18:58
目の前の赤い信号機と言う思考
信号機からの反射する光が、眼球というレンズを通し、網膜細胞を活動させると、その活動を脳細胞が色として組み立てるのです。

光は、ただ網膜細胞を活動させるのだが、この物体に反射する事で、反射した光は、物体の表面の特性に対応した周波数の光として、視覚器官を介して、脳が多様な色彩として了解する。
この特定の周波数の光が、物体の表面に反射するのだが、しかしその反射する光は、あくまでも光のレベルの問題であって、その光が視知覚器官に作用する時、人間の脳は、色と処理するのです。

人間は頭の中で色と処理する時、目の前の信号機に反射した光を、色と区別した認知で、特定化するのです。つまり、赤い色の信号機と表示するのです。この表示構造にすれば、どう見ても特定の波長の光が、そのまま赤い色であると即断しているのです。
客観としては、只特定の波長の光なのだが、ただその特定性を視知覚を通して脳が処理するので、私達の認知に対応させて、赤と言う色覚と言葉で表しているのです。

「信号機に反射した特定の波長の光が」と言葉にするのだが、此の言葉は、視知覚としての色彩感覚の違いを確認して、その違いを客観としての光の特性としての周波数として表しているのです。

特定の波長の光と言う言葉で使用されている特定性は、波長としての特定性であり、それは物理学の問題なのだが、その特定性を感性としての視知覚で表すのです。それが赤であり、緑であり、黄色なのです。
さらに視覚器官が光の知覚できる範囲があって、それが紫外線と赤外線の内部に限定されるのです。

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かがみ論(2)

2017/10/22 19:20
私の目の前にある信号機が赤から青に変わる。信号機を見ながら、其処に赤色から青に変わる信号機が有るのを了解している。赤色の信号機があるのです。信号機自体が、赤なのです。

私の、その視覚体験に対して、次の様な区別を立てる。
私達が瞼を閉じた時にも、その信号機に有る赤い色、瞼を開ければ、やはり目の前にあると見えている。
この時赤い色は、客観として其処に存在していると理解している。

ただ存在する赤とは、目の前の信号機が赤色であると視覚していると言う事なのだが、それは現に見えている事の中で、其処に赤があると判断しているのです。判断としては、その信号機が赤なのだが、問題は客観として赤があると言う思考なのです。

とすると問われるのは、客観として赤の存在と言う判断に対して、反論出来る視点があるかどうかなのです。
客観として存在する赤い色という判断が、現にこの目で見ている所で成立して居て、見た通りにその信号機が赤なのです。
見ている限り、其処の信号機は赤なのです。

光学的認知としては、信号機に反射した光が、視覚器官を作動させ、脳が赤色として処理するのです。信号機を見ているとは、信号機に反射した光が、眼球というレンズを通して、網膜細胞を作動させ脳で色として処理しているのです。
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禅の言葉(7)

2017/10/09 15:35
道元の一つの疑問
ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」

発心(修行)して菩提を求める。修行は人間にはない菩提を獲得する手段と成る。修行が人間が持っていない菩提を手に入れることが出来るモノと理解されている。
しかし持っていないモノをてにいれるとして、それは何処かになければならないはずで、人間は修行で、その人間にない菩提になるものを、手に入れると言う理屈。
でも無いモノがどうしてあるモノと成るのか。其処に修行と言う行為が無から作り出すからと修行万能性が立てられた。特定の修行をすれば、ないはずの菩提が手に入ると成ったのです。

さらに、持っていない菩提に対して、人間には可能性としの菩提の芽が存在すると想定されて、その可能性を修行で現実の存在にすると理屈立てしたのです。この理屈は、植物の構造が参考にされた。植物の芽が、そのままスライドされ、菩提の芽と言う比喩に仕立てたのです。しかし植物の場合には、めは個別に確定され、その芽が光や水を
吸収する事で、成長して、果実になったり、花になったり、葉っぱになったりする。
つまり、芽は個別に特定されるので、その内部が分からなくとも、芽から花になる過程が認知される。その芽の有り方が比喩として可能性を菩提の芽と想定するのです。そこで菩提の芽と比喩され、菩提が確定されたかの様になったのです。

この可能性ー現実性
と言う考え方は、それを支える植物の構造性が、経験知として芽から花への変化の了解性として作られー目の前で芽から花へ変化しているー菩提に当てはめたのです。

別の視点
ある原石が有り、研磨するとダイヤモンドになった。
そもそも原石の段階でもダイヤモンドなのだが、原石の表面を角度を付けて研磨すると、其処に光の反射から生まれる、輝きをもった宝石が生まれた。光り輝く事が宝石なら、ダイヤモンドで有ろうと、なかろうと原石には宝石になる可能性があり、それを研磨という修行で宝石にすると言う理屈になる。原石としてのダイヤモンドはどんな事をしても分子としてのダイヤモンドとして同一だが、その原石の表面を研磨する事で宝石が生ずる。
可能性とは、分子としてのダイヤモンドの事であり、それを修行という研磨で、宝石にするのです。研磨が現実化の過程で有り、研磨の終了したモノが宝石というダイヤモンド原石の現実態と言う事に成る。

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鏡像の理屈(1)

2017/10/06 00:21
釈迦の教えを鏡にして、自己を知る事となるのだが、この比喩としての鏡について考える。
鏡に写る像は、鏡の前にいる者の似姿が、像として成立して居る。その鏡の中の像は飽くまでも視覚器官によって知覚される姿で有って、それはありふれた他者の似姿をこの目で見る事と同じなのです。只この時私達はこの目で他者を見ていても、自分の目で自分の顔を見る事は出来ないのです。

そこで、鏡と言う道具が考えられた。其処に写る似姿を見る事で、鏡に写っているの像を、視覚的に了解するのです。
私達は直接目で他者を見るが、しかし自分の顔を直接見る事は出来ない。鏡により像として見る似姿は、あくまでも鏡に写った姿なのです。私が他者をこの目で見ていても、鏡の像である似姿を見ながら自分の顔と了解する。

私は自分の目で他者の顔を見るが、自分の目で自分を見る事はない。そこで自分の目で鏡に写る似姿を見ている事で、これが自分の顔だと了解するのです。私が他者の顔をこの目で見ているとは、彼の顔に反射した光が視覚器官に入り、顔として了解する。私の顔に反射した光が鏡に反射して、私の視覚器官に入り、自分の顔として了解する。

目の前の他者を見るとは、彼に反射した光が私の視覚器官に入る事だが、その彼が生身の肉体として、同じく生身の私に肉体としてぶつかるのです。視覚は反射する光が関わるだけで、生身の他者が存在しても、ただ肉体に反射した光を介して、視覚器官を作動させ、脳で自画像として了解する。

私が目の前のAさんを見ている時、其処にAさんが存在していると判断している。この存在していると言う判断は、視覚が知覚している姿として認知している。目の前とは、私に対する彼の位置情報であり、同時に姿形としての視覚情報なのです。つまり、Aさんの存在その者に対する各情報を頭の中で、処理しているのです。
私達が生きている事が、同じく生きているAさんと関わる事だが、その生きている上で、知覚から得た情報が、生きる為に動作するのです。
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禅の言葉(6)

2017/09/23 14:29
道元の一つの疑問
ー「顕密二教とも談ず。本来本法性天然自性身と。もしかくの如くなら、過去の諸仏何によりてかさらに、発心し菩提を求めるや」

過去の諸仏が、生まれながらに仏であるなら、態々発心して菩提を求めるのはどうしてか。菩提を生まれながら持っているのに、自分達にはないと思っている菩提を、発心して得ようとする事がおかしいのではないか。
得よいとしなくても、生まれながらにもっているのだから。

その答えは、次の様な理屈になる。
発心しなくても生まれながらに菩提を持っているのなら、菩提を得る発心は、必要ない。
しかしそもそも
生まれながらに菩提を持っているとして、人間でそれに気付いたのは、仏教の創始者釈迦なのです。菩提樹の下で静に坐禅をしていた時、自分を含め人間は、生まれながらに菩提を持っているのだと理解したのです。その理解を悟りと言うのです。
つまり、釈迦は菩提を得たのではなく、もともと菩提を持っていると理解したのです。従来苦行と呼ばれる修行は、人間が持ってはいなかった菩提を得る為に成されていたと考えられていた。元々なかった菩提を修行で得る事が出来ていると考えたのです。
元々無い「無」から、有を作り出すのだとなる。

従来の教説では、無から有を産み出したのが先師と言う事に成る。先師の能力が無から有を作り出したのだと考えて、凡人は先師の獲得方法を真似すれば、無かったはずの菩提を獲得したのだと結論したのです。先師には無から有を作り出す能力が有ると言う事で、菩提の獲得が出来ると成ったのです。

この考え方を捨てて、釈迦が実行したのは、菩提の獲得ではなく、元々菩提を持っていると気付いたと言う事なのです。
菩提樹の下での静かな坐禅では、人間は生まれながらに菩提を持っていると気付いただけであり、けっして菩提を獲得したのだと言う事とではないのです。

さて釈迦が実行したのは、気づいた事だけなのだが、只その気づきはとても理解が難しいと考えて、その気づきを自分一人の中に留めていたが、釈迦の周りに集まる生きとし生ける諸物が、釈迦に教授してくれるよう懇願したために、釈迦は生けるモノに対して、自分が気付いた菩提を生まれながらに持っている事を教え始めたのです。
私達が現代接している仏説とは、その気づきを人々に教え諭した言葉で有るのだが、問題は釈迦の気づきが、仏説として言葉にしている為に、言葉としての概念性が表出されていても、けっして釈迦の気づきではないことなのです。釈迦自身の気づきが概念化された言葉になってしまうのです。

つまり、私達が現代釈迦の言葉に接しても、それは概念化された気づきに向かうだけで、釈迦の気づきに接しているのではないのです。
そこで人々が生まれながらに菩提をもっているとは、釈迦の気づきは、釈迦自身のモノで有るように、私達もまた気付くのであり、それは釈迦の気づきと同じなのです。

しかし私達が自分達の気づきを釈迦の気づきと同一だと言ったら、それは独断にならないか。其処に釈迦が実行した教説という教えが有り、教えの枠組みに照らし手、自己の気づきをチッエクするのです。

その教えの中には、言葉に依る枠組みだけではなく、身体をつかった坐禅等の修行があり、気づきだと思っているモノを絶えず多様にチッエクする事になるのです。

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「は」と「が」の違い(3)

2017/09/22 00:37
私は、学校へ行く。・・・・(1)
私が、学校へ行く。・・・・(2)

両者とも、主体たる私と活動としての「行く」事で、成立している。
そのそれぞれが指示する現実の出来事があるのだが、此処ではさし当たり「現実の出来事」と言葉にしておく。
その現実の出来事を、「私が・・」と「私は・・」と言葉にするのです。
その言葉は、現実の「行く行為」を実行する主体たる「私」の、その有り方が違う事を表している。
私達は、現実の出来事に対して、「私が・・」と「私は・・」と使い分けをしているのであり、その使い分けを納得しているモノを、解明する事に成る。
この「が、は」の違いを既知と未知で区別しようとする方法は、言葉を話し手や聞き手の頭の中の認知として処理しようと言う事になる。
例えば「・・・・学校へ行く」事と「・・・・図書館へ行く」の違いは、その言葉通り、行く場所が違う。では「が」と「は」の違いは、「私」の何を表しているかとなるのです。
現代の文法感では、「が」は、未知を受けて主体を表し、「は」は、既知を受けて主体を表すと言う。
とすると、同じ「学校へ行く」なのに、何処が既知で、何処が未知かと言う問いが成立する。
それは、「話し手・聞き手」にとって、未知であり、既知だと言う事になる。
まず「未知」としての、「が」から考える。
当然日本語として理解しているから、言葉として理解されている。発言された言葉を理解したり、曲解したりしている。
それに対して、私にはフランス語は分からないから、フランス語としては既知も未知もあり得ないのです。それが日本語を話す私にとって理解の上に、未知と既知と言う文法処理をしている事になる。

日本語としては、「学校へ行く」と言う言葉は、難しい理解ではない。
日本語として「ぁ! そうか」となる。
では当たり前の理解の何処に「未知」が内蔵されているか。
それは学校へ行く人が居るのは既知だが、誰が行くのかは未知であると言う事なのです。其処には、学校へ行く人々がいるのだが、誰が行っているのか特定されていないと言う事が、話し手にも、聞き手にも未知であると了解されている事を言葉にしているのです。学校へ行く人が、沢山いても、誰が行くのか分かっていない事が前提で、その未知を確定したモノが「私が、学校へ行く」と既知として言葉に表される。

未知をそのまま言葉にしているのが、「誰が学校へ行くの」と言う言葉で、人いれば、既知として学校へ行く人がいるのだが、ただ誰だか確定していないので、「誰か゛・・・」が未知を言葉にしている。

学校へは誰かが行くのだが、その特定されていない誰かを未知として前提にして、「私が・・」と表現する事で、「私」が、確定する。
つまり、行くのは結局私なのだが、その結論は、誰が行くのかと言う未知を前提にしているのであり、その前提を「が」で表している。

その未知を「誰が学校へ行くのか」と言う言葉で表す。その未知に対する問いが、答えとして学校へ行くのは「私」だとなるが、その結論の表現を前提にする、誰が行くのか分からないと言う未知がある事を「が」で表す事になる。
とすると、同じ「学校へ行く」のだが、行く主体が未知であるのと、既知であるのとの違いなのです。

「私は、学校へ行く」
が既知なの、行くのは私と決まっていて、後はただ決まっている私の、その属性が表現されるのです。

「桃太郎の話し
昔々ある所にお婆さんとお爺さん「が」住んでいました。
お爺さん「は」山に芝刈りに、お婆さん「は」河に洗濯に行きました。

昔々ある所に人が住んでいる事は、既知であるが、只どんな人が住んでいるかは未知であり、その未知を前提にして、二人の年寄りが住んでいる事が既知として、話し手と聞き手に知られている共通知で、その二人がどんな事をしているかと言う視点が未知として規定され、その未知のモノをさらに言葉を継いで既知の内容とする。
つまり、未知と既知とは、言葉で表現する時、話し手や聞き手に対して、知識として既知と未知を使い分けて、完結した言葉の中に、未知のモノが明らかにされる。
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禅の言葉(5)

2017/09/22 00:35
禅の語録20 「禅の語録」導読   
                小川隆   筑摩書房

如何なるか、是祖師西来の意旨

達磨太子がインドから態々中国に来た意味は何か
その意味に付いて延々と説明しても、それは西来の意の言葉での理屈であって、それが理屈なのは、意味が理解出来たとして、理解したモノを実行しなければ成らず、ただ理屈のレベルは理解のレベルだと言う事で、その上に実行が伴う事が必要になる。
そして「その上に実行が必要である」と言っても、結局まだ言葉での目標に過ぎないのです。

実行と言う言葉は、飽くまでも言葉であり、「言葉無しでも成立している出来事」を指示するだけなのです。
そして「言葉無しでも成立している」も言葉で有って、これらの言葉が無い所で、沈黙の中にと言葉を重ね所から、離れる事でありありと実感するのです。

禅の語録も、その実行を言葉にしているのたが、決して理屈に則った言葉では無く、西来の意について答えて居る様で、理屈のある言葉として理解出来ないのです。

「達磨太子がインドから中国に来たのは、どうしてか」
と言う問いは、インドに定住していた人が、中国という別の人々がいる場所に来た時、その場所移動が実行された理由を明らかにしようと言う事に成る。
インドから中国は、只の場所移動であって、歩行が実行されれば実現する事になる。その脚を動かす意志は、目の前の場所を一歩一歩の歩行で実現をする事なのです。
しかし此の意志は、例えば下りの坂道に立てば、身体の重心の移動で簡単に前進したり、後退したりして、ただ、意志に関係なく歩いてしまうのです。体を傾けるだけで移動してしまうのです。

中国と言う場所を選んで、そこまで歩き続ける身体は、頭の中の中国という場所のイメージをつくり、歩行で実現するのです。
達磨太子が、中国に来たのは、意志に依ってきたのであり、その意志とは中国で仏の教えを人々に広める事なのだが、しかしその意志は、現実に中国に到達して、実行される事でしか成立しない。一秒一秒の時間の経過としてしか成立しないのであり、中国に来る意志は、その一歩一歩によって実現したのです。
しかしこれはあくまでも中国という場所に到達する意志の実現であって、到達した後の意志の実現は、布教する実行なのです。


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無知の知と言う構造(1)

2017/05/06 13:17
無知=Aの知=B
ーの構造として、最初の無知とは、A1、A2、A3、A4、A5、その他無数にある出来事に付いて、私は知が無い、知らない、その知を持っていないと言う事になる。
それに対して、その次の「知=B」は、A1と言う個々についての知ではなく、A1について知らない事を、私は知っていると言う事なのです。

A1と言う出来事について無知だと言う事、個別としての出来事「A1、A2、・・・」について、無知である事を、私は知っていない事を、知っていると言うのです。
つまり、何事かA1について無知な私は、しかし自分が無知である事は、知っているのです。
A1についてその内容を無知なのだが、自分が無知であると言う内容は知っているのです。

今日一日中部屋にいたので、屋外の天気がどうなっているか私は知らないのです。屋外は、私達はその五感で知覚すれば分かる事なのだが、今日は一日中部屋の中に居て、屋外を知覚していないので、屋外の天気について知覚が成立しない。

部屋にいる限り、只部屋の中を知覚しているだけだが、その部屋の中に居て、「部屋の外の天気はどうなっているのか」と言う疑念をもった場合、その疑念に答えるのは、部屋の外に出て天気を確認するかだが、既に夕方になっているので、日中の天気がどうなのかはーー夕方の今は曇りだがーー分からないのだ。

日中外に居た人が知覚した知識を聞いたり、映像の記録を見たりして、天気がどうなっていたかを知るとして、夕方の今目の前の天気模様を知覚している事は、目の前間出来事の体験だが、映像を見たり、日中の天気模様を経験している人の知を聞いたりしても、それは知識として頭の中に成立しているモノに過ぎず、そして知識として成立させる事が大事であって、けっしてタイムトラベルで日中に移動して、日中の天気を体験する事なのではない。
私達は生きている限り、日々体験している出来事を同時に五感を介して、知識として知覚しているのであり、だから日中部屋に閉じこもっているのは、ただ閉じこもりの知覚と体験が続いたいるだけで、日中の閉じこもりの体験の中で、体験していない日中の天気模様体験については、ただ思考として知識を頭の中に作る事が問われている。
既に日中は過ぎてしまい、夕方を体験している、今此処の様に、日中の天気模様を体験するのではなく、ただ日中の天気模様を知識化するだけなのです。その知識化の為に、他者の 体験化を言語化した言葉を知識として取り入れるだけなのです。
私達にとって、一枚の写真は、他者の体験であると同時に、他者の体験知を知識として取り入れ媒体でもあるのです。
他者に取っては、そして私達自身もそうだが、全てそれぞれ個の体験であると同時に体験知であり、私達には、後者の体験知を知識として頭に蓄える、手段なのです。

Cさんの体験は、日中の天気模様の体験であると同時に、天気についての体験知であり、私達も個として体験するが、私は日中部屋に閉じこもっていたので、日中の天気模様は体験していない。
天気模様体験だけなら、Cさんは体験し、私は体験しない事だが、しかし私がこんな事を態々言葉にするのは、Cさんの体験に伴う知を、知識として私の頭の中に、取り入れて、知識として組み立てようと言う事なのです。天気模様体験としては、生きている日々の出来事で有るが、同時に体験知であるから、その体験知を知として組み立てて、頭の中に知識として蓄積するのです。

私達は、日常天気の変化を知覚して、頭の中に知を持っている。
今日一日中部屋に居たので今日の天気は見ていない。その今日の体験と頭の中の知識とを重ねて、では今日の天気はどうなのかと問いを立てるのです。この問いは、今日の天気を記録した画像や人の記憶によって確認されるのです。画像は天気の模様を記録しているので、そり画像を見て、今日は雨だったと理解するのです。
また今日の天気を体験した人の知を言葉にしたモノを読んで天気模様を理解するのです。

問題は画像では、目の前の天気模様の具体性を知る事に成るが、人の言葉では、飽くまでも言葉として理解するだけで、言葉とは、概念として頭を働かせるのです。その概念は、種類としての区分けのです。
例えば、雨と言う言葉は、天気の特定の状態を言うのだが、画像にした雨に対して、概念、言葉としての雨は、小雨、霧雨、豪雨と言う様に種類を区別する事で、雨の個別性を示すのです。

無知は、飽くまでもA1,A2,A3等の個々の出来事に対して、A1知、A2知、A3知、その他知、として私達の頭の中に成立していない事なのだが、しかし私達は、自分がA1,A2等について、A1知、A2知、が成立していない事を知っているのです。
ただ無知の場合、頭の中にはA1等についてのA1知が成立して居ないのだから、A1について考える事が、成立しないのです。
無いモノを「無い」と言う為には、まず「有る」と頭の中で想定し、しかる後に「無い」と廃棄するのです。
つまり、今日の天気はどうだったかと言う問いは、家の外に出て、その夕方の曇りの天気をみながら、日中の天気を考える事で有って、その日中の天気を考える為には、今見ている夕方時の天気知を前提にして、今夕方の天気は、此の様に曇っているが、私が見ていない、日中の天気はどうなのだろうと思考するのです。

今夕方では、私の目の前に知覚している天気模様から、天気模様という視点を思考して、私が見ていなかった日中の天気を、その思考の上で、天気像をイメージ化するのです。
つまり、私達は夕方時の今此処での知覚を前提にして、その知覚から思考として天気一般を構築し、その一般化の土台の上に、私が見ていなかった日中の天気ーー天気を一般化したから思考できた事ーー頭の中にイメージ化するのです。

個別の出来事「A1、A2、A3」ついての、知が無い事を知っている知Bが成立して居る事を、「無知を知っている知」と言うのです。
問題は、A1、A2、A3等個別の出来事について、A1知、A2知、A3知があるのだが、私達2は、頭の中にそれが成立して居ない事を知っていれば、A1知、A2知、A3知等の一つとして、B知が成立して居る事になる。
つまり、無知とは、A1知、A2知、その他の知が、成立しない事だが、その時同時に、A1知が成り立って居ない事を知っているから、自分の事をA1については、無知だとなるのです。

無知である事を知っている知とは、今日の天気については、部屋に閉じこもっていたので、どんな天気なのか知らない。
知らない知の内容が、今日の天気模様なのに対して、私が天気模様を知っていない事は、知っていると言うのです。
この知っている知の内容は、今日の天気模様がどうであったか知らない事なのです。
この知らない事を私は知っている、その時点で天気模様をしったのだが、さらに記憶として継続して、二日たっても、五月一日の天気は雨模様だったと記憶しているのです。

天気模様は、今此処で五感が知覚して、知っているのだが、その時点の知が、記憶として頭の中に存在している事が、記憶として知っているとなるのです。

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禅(2)

2017/05/03 15:53
五祖弘忍禅師が次の禅師に弟子のなかから袈裟と正法を授ける者を指名しようとする時、五祖は、弟子に頌を作って提出する様にいった。

弟子中一番の秀才であると誰もが認めている神秀大師が頌を提出した。

この身は悟りの樹
心は澄みし鏡の台
常に掃き清め
塵ほこり、着かせる事の無い様に

これを見ていた慧能禅師は

悟りに樹などない
澄し鏡の台などでもない
本来無一物
何処に
塵ほこりなどがありようか

五祖は慧能のその頌を聞いて、黙ったまま慧能の深意を知った。
五祖は、慧能を六祖に指名して、神州大師の門下がいる地
ー神州の頌を否定する慧能は、門下に襲われかねないので、その地を遠く差なれる様に
五祖に進められて、南方の曹渓の地にもどって「東山法門」を作るのだった。

慧能は、神州の頌を否定するだが、しかし否定は飽くまでも、神州の頌の内容で、言葉として提出されたからであって、否定される言葉があるから出来る事なのです。
つまり、否定で慧能の深意が表されたのだといっても、否定の言葉では無く、肯定の言葉で深意を表さなければ成らない。

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禅(3)

2017/05/03 14:53
此処に一枚の写真がある。
二歳児が床にお尻を付けて座っている姿なのです。
その姿は、背筋がゆったりとして伸びているのです。
大人が床にお尻を下ろして座る時、背筋は猫背気味になってしまい、それを防ぐ為に意識して背筋を伸ばすのです。この意識的に成される背筋伸ばしは、他者から見れば力を入れて伸ばしているとと感じられるのです。幼児の坐りでは、背筋はゆったりと伸びているのです。

大人が座る時、自分達の座り方は、どうしても力の入った背筋になってしまい、私達の目の前にある幼児のゆったり感にはならないのです。
幼児はゆったりとした座り方をしているのに対して、大人は座り方の理屈を立てて座る事で、背筋が猫背気味になる座り方から、意識的な座りに移行するので、全身真っ直ぐに伸ばしていると言う姿勢になってしまう。
床にお尻を付けた坐りが、幼児の様に背筋が伸びて、さらにゆったりした坐りにの姿勢になるのは、背筋を伸ばすと言う意識と、伸ばす事で全身に力が入っていると言う二点が成立してしまうからです。

では、その二点に注意して、幼児のゆったり感に近づく坐り姿勢になるのに、どうすればいいか。
それは胡座を書いて坐る時、注意意識を股関節周辺に持って行く事で、その股関節の上に繫がる背筋が、伸ばそうとしなくても、伸びてしまうのです。股関節周辺を、少し前に突きだそうとすると、股間に繫がる関節が前に出る事で、股関節を土台にした背筋が伸びるのです。

背筋を伸ばそうとして、伸ばすのは、飽くまでも背筋全体を一本の棒の様に真っ直ぐする事で、「ぐゅにゃ」とした紐を、真っ直ぐに伸ばす事で伸びる事になる。紐の両端をもって引っ張る事で伸びる。
しかしこの伸びは飽くまでも、両端を引っ張る意志なしには生じないので、どうしても引っ張る意志を切り離せないのです。
それに対して、胡座をかいた姿勢で股間の間を前に突き出すと、股間を突き出している分、股間に繫がる、曲がっている背骨が真っ直ぐに成ってしまうのです。
この真っ直ぐ成ってしまう動きは、、意志にとって傍観するモノで有るために、背筋が伸びている事は、ゆったりとした姿と成るのです。

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禅の言葉(10)

2017/04/29 14:39
液体が入っている茶色の瓶の側面に「アンモニア」と文字が書かれている。
瓶の表面に貼られた、「アンモニア」と言う文字の書かれた白紙は、瓶の中身の液体が「アンモニア」と呼ばれている事を表している。
つまり、瓶の中の液体について、「アンモニア」と言う名前で呼称されているのだが、ただ特定の性質が認知されて頭の中に蓄積された知が、「アンモニア」と言う言葉の知を介して、目の前の瓶の中の液体を支持するのです。

飽くまでも私達人間に取っての作為であって、客観物の液体に特性が有っても、その特性を認知して頭の中に蓄えられたモノが、「アンモニア」ト言う言葉に表されているのです。つまり、「アンモニア」ト言う言葉は、客観物である瓶の仲に入っている液体を名指しているのだが、それは客観物に対する人間側の作為であり、それを言葉で名付けると言う事になる。つまり、「アンモニア」とは、声帯の震動なら、話し言葉であり、インクの跡なら書き言葉で、特定の性質の液体を、名指す事なのです。
インクの跡としての「アンモニア」と言う書き言葉が、名指しであるとは、ある液体が対象として知覚されて居る時、同時にその液体の性質が、特定の性質として認知される。インクの軌跡としての「アンモニア」と言う文字との、この液体と言う対象との繋がりは、特定の性質の認知を介して成立する。
アンモニアと言う文字とある性質を持つ液体とが、物理的な繋がりが有ると言う事ではなく、飽くまでも頭の中の認知としての繋がりで有って、私達が「アンモニア」と言う言葉を発する事は、その言葉に繫がる「特定に性質」と言う認知を、目の前のこの液体に適応させる事で、特定の性質を持った液体としての「アンモニア」と言う言葉が成立する。

問題は、この液体の「特定の性質」に付いての認知は、飽くまでも頭の中の認知で有って、それは認知している者の頭の中だけで成立して居るだけで、他者には伺い知れないのです。それなのに、この液体が誰にでも「アンモニア」と呼ばれるのは、この液体について、誰でも認知するモノが、同一で有ると判断しているからです。
つまり、私も彼もつねその五感で液体を個として知覚するが、同時にその性質を「特定の性質」として、認知し、その特定性を、液体の反応として調べる事で、頭の中の「特定の性質」が、液体の性質として特定されたのです。
「アンモニア」と言う言葉の、この液体についての名指しは、頭の中に成立して居る「特定の性質」と言う認知が、この液体の示す反応の知覚を介して、関係するからです。
特定の性質と言う認知は、それぞれの人々の頭の中の出来事だが、液体の特定の反応として成立して居る事で、「特定の性質」と言う認知が、人々に客観性として、共有されるのです。

つまり、「特定の性質」と言う頭の中の出来事は、液体の反応過程への認知として成立する事で、客観としては、誰にでも同一の認知として成立するのであり、同時に頭の中の孤立した出来事は、客観性の認知として、姿を見せるのです。

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数学と算数(1)

2017/04/28 20:59
例題
「一袋8個入りのチョコレートが7袋と袋に入っていないチョコレートが17個ある。此処にはチョコレートは全部で何個有るか」

この小学二年生に対して出した例題に対して、二年生は答えを次の様に解答した。
(8×7)+17=73・・・・(1)

チョコレートは全部で73個と成った。
その答えに対して、担任の先生は、この解答式は誤りだと言う。
さて何処がどう誤りなのか、説明しなければ成らない。

答えの結果としての73個では、誤りは有りません。
先生が言う誤りとは、73個の個数の事ではなく、その73個の答えを出す掛け算が問われているのです。計算の中の掛け算が間違っていると言う事ではなく、小学2年生のレベルでの解答の方法なのです。

二年生の段階で、掛け算を使用した事が問われている。つまり、チョコレート8個入りの袋が7袋あると言う事に対して、掛け算である
8×7は、算数の過程では、一段上の飛び級の思考であるなら、ではまず何が前提にになっていなければ成らないか。
それは
「8+8+8+8+8+8+8=56」・・・・(2)
と言う足し算なのです。

つまり
         「8+8+8+8+8+8+8」+17=73・・・・(3)
足し算で合計を出すのです。

私の年代の知識ならば、掛け算をした方が早いのです。
しかし、二年生ではまず数学史としては、足し算を思考して、(3)の計算をして、合計を算出するのです。
その足し算が掛け算に向かう道筋が明晰に成った時、初めて掛け算の簡易性を使用する事になる。

掛け算の簡易性は、数学の積み重ねの上に成り立っているのであり、二年生は、足し算のうえに掛け算が成り立って居る事を知る事が、学としての勉強なのです。
確かに独学で掛け算を勉強したので(2)ではなく、(1)の式に成ったのだが、その独学の背後に、足し算と掛け算の関係が知られていなければ、(1)の式で答えを出しても、学としての積み重ねとは言えないのです。教室で算数を学ぶとは、足し算、引き算、掛け算、割り算の間柄を学ぶ事であって、例えば掛け算に対して、8×7 と  7×8  が同等に成立するのは、掛け算のルールであるのに対して、8×7は成立しても、7×8は、成立しないと言うルールもあるのです。

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