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思考への道
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日々の感性を問う事で、思考の論理構造を自分の前にさらけだすのです。
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無知の知と言う構造(1)

2017/05/06 13:17
無知=Aの知=B
ーの構造として、最初の無知とは、A1、A2、A3、A4、A5、その他無数にある出来事に付いて、私は知が無い、知らない、その知を持っていないと言う事になる。
それに対して、その次の「知=B」は、A1と言う個々についての知ではなく、A1について知らない事を、私は知っていると言う事なのです。

A1と言う出来事について無知だと言う事、個別としての出来事「A1、A2、・・・」について、無知である事を、私は知っていない事を、知っていると言うのです。
つまり、何事かA1について無知な私は、しかし自分が無知である事は、知っているのです。
A1についてその内容を無知なのだが、自分が無知であると言う内容は知っているのです。

今日一日中部屋にいたので、屋外の天気がどうなっているか私は知らないのです。屋外は、私達はその五感で知覚すれば分かる事なのだが、今日は一日中部屋の中に居て、屋外を知覚していないので、屋外の天気について知覚が成立しない。

部屋にいる限り、只部屋の中を知覚しているだけだが、その部屋の中に居て、「部屋の外の天気はどうなっているのか」と言う疑念をもった場合、その疑念に答えるのは、部屋の外に出て天気を確認するかだが、既に夕方になっているので、日中の天気がどうなのかはーー夕方の今は曇りだがーー分からないのだ。

日中外に居た人が知覚した知識を聞いたり、映像の記録を見たりして、天気がどうなっていたかを知るとして、夕方の今目の前の天気模様を知覚している事は、目の前間出来事の体験だが、映像を見たり、日中の天気模様を経験している人の知を聞いたりしても、それは知識として頭の中に成立しているモノに過ぎず、そして知識として成立させる事が大事であって、けっしてタイムトラベルで日中に移動して、日中の天気を体験する事なのではない。
私達は生きている限り、日々体験している出来事を同時に五感を介して、知識として知覚しているのであり、だから日中部屋に閉じこもっているのは、ただ閉じこもりの知覚と体験が続いたいるだけで、日中の閉じこもりの体験の中で、体験していない日中の天気模様体験については、ただ思考として知識を頭の中に作る事が問われている。
既に日中は過ぎてしまい、夕方を体験している、今此処の様に、日中の天気模様を体験するのではなく、ただ日中の天気模様を知識化するだけなのです。その知識化の為に、他者の 体験化を言語化した言葉を知識として取り入れるだけなのです。
私達にとって、一枚の写真は、他者の体験であると同時に、他者の体験知を知識として取り入れ媒体でもあるのです。
他者に取っては、そして私達自身もそうだが、全てそれぞれ個の体験であると同時に体験知であり、私達には、後者の体験知を知識として頭に蓄える、手段なのです。

Cさんの体験は、日中の天気模様の体験であると同時に、天気についての体験知であり、私達も個として体験するが、私は日中部屋に閉じこもっていたので、日中の天気模様は体験していない。
天気模様体験だけなら、Cさんは体験し、私は体験しない事だが、しかし私がこんな事を態々言葉にするのは、Cさんの体験に伴う知を、知識として私の頭の中に、取り入れて、知識として組み立てようと言う事なのです。天気模様体験としては、生きている日々の出来事で有るが、同時に体験知であるから、その体験知を知として組み立てて、頭の中に知識として蓄積するのです。

私達は、日常天気の変化を知覚して、頭の中に知を持っている。
今日一日中部屋に居たので今日の天気は見ていない。その今日の体験と頭の中の知識とを重ねて、では今日の天気はどうなのかと問いを立てるのです。この問いは、今日の天気を記録した画像や人の記憶によって確認されるのです。画像は天気の模様を記録しているので、そり画像を見て、今日は雨だったと理解するのです。
また今日の天気を体験した人の知を言葉にしたモノを読んで天気模様を理解するのです。

問題は画像では、目の前の天気模様の具体性を知る事に成るが、人の言葉では、飽くまでも言葉として理解するだけで、言葉とは、概念として頭を働かせるのです。その概念は、種類としての区分けのです。
例えば、雨と言う言葉は、天気の特定の状態を言うのだが、画像にした雨に対して、概念、言葉としての雨は、小雨、霧雨、豪雨と言う様に種類を区別する事で、雨の個別性を示すのです。

無知は、飽くまでもA1,A2,A3等の個々の出来事に対して、A1知、A2知、A3知、その他知、として私達の頭の中に成立していない事なのだが、しかし私達は、自分がA1,A2等について、A1知、A2知、が成立していない事を知っているのです。
ただ無知の場合、頭の中にはA1等についてのA1知が成立して居ないのだから、A1について考える事が、成立しないのです。
無いモノを「無い」と言う為には、まず「有る」と頭の中で想定し、しかる後に「無い」と廃棄するのです。
つまり、今日の天気はどうだったかと言う問いは、家の外に出て、その夕方の曇りの天気をみながら、日中の天気を考える事で有って、その日中の天気を考える為には、今見ている夕方時の天気知を前提にして、今夕方の天気は、此の様に曇っているが、私が見ていない、日中の天気はどうなのだろうと思考するのです。

今夕方では、私の目の前に知覚している天気模様から、天気模様という視点を思考して、私が見ていなかった日中の天気を、その思考の上で、天気像をイメージ化するのです。
つまり、私達は夕方時の今此処での知覚を前提にして、その知覚から思考として天気一般を構築し、その一般化の土台の上に、私が見ていなかった日中の天気ーー天気を一般化したから思考できた事ーー頭の中にイメージ化するのです。

個別の出来事「A1、A2、A3」ついての、知が無い事を知っている知Bが成立して居る事を、「無知を知っている知」と言うのです。
問題は、A1、A2、A3等個別の出来事について、A1知、A2知、A3知があるのだが、私達2は、頭の中にそれが成立して居ない事を知っていれば、A1知、A2知、A3知等の一つとして、B知が成立して居る事になる。
つまり、無知とは、A1知、A2知、その他の知が、成立しない事だが、その時同時に、A1知が成り立って居ない事を知っているから、自分の事をA1については、無知だとなるのです。

無知である事を知っている知とは、今日の天気については、部屋に閉じこもっていたので、どんな天気なのか知らない。
知らない知の内容が、今日の天気模様なのに対して、私が天気模様を知っていない事は、知っていると言うのです。
この知っている知の内容は、今日の天気模様がどうであったか知らない事なのです。
この知らない事を私は知っている、その時点で天気模様をしったのだが、さらに記憶として継続して、二日たっても、五月一日の天気は雨模様だったと記憶しているのです。

天気模様は、今此処で五感が知覚して、知っているのだが、その時点の知が、記憶として頭の中に存在している事が、記憶として知っているとなるのです。

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禅(2)

2017/05/03 15:53
五祖弘忍禅師が次の禅師に弟子のなかから袈裟と正法を授ける者を指名しようとする時、五祖は、弟子に頌を作って提出する様にいった。

弟子中一番の秀才であると誰もが認めている神秀大師が頌を提出した。

この身は悟りの樹
心は澄みし鏡の台
常に掃き清め
塵ほこり、着かせる事の無い様に

これを見ていた慧能禅師は

悟りに樹などない
澄し鏡の台などでもない
本来無一物
何処に
塵ほこりなどがありようか

五祖は慧能のその頌を聞いて、黙ったまま慧能の深意を知った。
五祖は、慧能を六祖に指名して、神州大師の門下がいる地
ー神州の頌を否定する慧能は、門下に襲われかねないので、その地を遠く差なれる様に
五祖に進められて、南方の曹渓の地にもどって「東山法門」を作るのだった。

慧能は、神州の頌を否定するだが、しかし否定は飽くまでも、神州の頌の内容で、言葉として提出されたからであって、否定される言葉があるから出来る事なのです。
つまり、否定で慧能の深意が表されたのだといっても、否定の言葉では無く、肯定の言葉で深意を表さなければ成らない。

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禅(3)

2017/05/03 14:53
此処に一枚の写真がある。
二歳児が床にお尻を付けて座っている姿なのです。
その姿は、背筋がゆったりとして伸びているのです。
大人が床にお尻を下ろして座る時、背筋は猫背気味になってしまい、それを防ぐ為に意識して背筋を伸ばすのです。この意識的に成される背筋伸ばしは、他者から見れば力を入れて伸ばしているとと感じられるのです。幼児の坐りでは、背筋はゆったりと伸びているのです。

大人が座る時、自分達の座り方は、どうしても力の入った背筋になってしまい、私達の目の前にある幼児のゆったり感にはならないのです。
幼児はゆったりとした座り方をしているのに対して、大人は座り方の理屈を立てて座る事で、背筋が猫背気味になる座り方から、意識的な座りに移行するので、全身真っ直ぐに伸ばしていると言う姿勢になってしまう。
床にお尻を付けた坐りが、幼児の様に背筋が伸びて、さらにゆったりした坐りにの姿勢になるのは、背筋を伸ばすと言う意識と、伸ばす事で全身に力が入っていると言う二点が成立してしまうからです。

では、その二点に注意して、幼児のゆったり感に近づく坐り姿勢になるのに、どうすればいいか。
それは胡座を書いて坐る時、注意意識を股関節周辺に持って行く事で、その股関節の上に繫がる背筋が、伸ばそうとしなくても、伸びてしまうのです。股関節周辺を、少し前に突きだそうとすると、股間に繫がる関節が前に出る事で、股関節を土台にした背筋が伸びるのです。

背筋を伸ばそうとして、伸ばすのは、飽くまでも背筋全体を一本の棒の様に真っ直ぐする事で、「ぐゅにゃ」とした紐を、真っ直ぐに伸ばす事で伸びる事になる。紐の両端をもって引っ張る事で伸びる。
しかしこの伸びは飽くまでも、両端を引っ張る意志なしには生じないので、どうしても引っ張る意志を切り離せないのです。
それに対して、胡座をかいた姿勢で股間の間を前に突き出すと、股間を突き出している分、股間に繫がる、曲がっている背骨が真っ直ぐに成ってしまうのです。
この真っ直ぐ成ってしまう動きは、、意志にとって傍観するモノで有るために、背筋が伸びている事は、ゆったりとした姿と成るのです。

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禅の言葉(10)

2017/04/29 14:39
液体が入っている茶色の瓶の側面に「アンモニア」と文字が書かれている。
瓶の表面に貼られた、「アンモニア」と言う文字の書かれた白紙は、瓶の中身の液体が「アンモニア」と呼ばれている事を表している。
つまり、瓶の中の液体について、「アンモニア」と言う名前で呼称されているのだが、ただ特定の性質が認知されて頭の中に蓄積された知が、「アンモニア」と言う言葉の知を介して、目の前の瓶の中の液体を支持するのです。

飽くまでも私達人間に取っての作為であって、客観物の液体に特性が有っても、その特性を認知して頭の中に蓄えられたモノが、「アンモニア」ト言う言葉に表されているのです。つまり、「アンモニア」ト言う言葉は、客観物である瓶の仲に入っている液体を名指しているのだが、それは客観物に対する人間側の作為であり、それを言葉で名付けると言う事になる。つまり、「アンモニア」とは、声帯の震動なら、話し言葉であり、インクの跡なら書き言葉で、特定の性質の液体を、名指す事なのです。
インクの跡としての「アンモニア」と言う書き言葉が、名指しであるとは、ある液体が対象として知覚されて居る時、同時にその液体の性質が、特定の性質として認知される。インクの軌跡としての「アンモニア」と言う文字との、この液体と言う対象との繋がりは、特定の性質の認知を介して成立する。
アンモニアと言う文字とある性質を持つ液体とが、物理的な繋がりが有ると言う事ではなく、飽くまでも頭の中の認知としての繋がりで有って、私達が「アンモニア」と言う言葉を発する事は、その言葉に繫がる「特定に性質」と言う認知を、目の前のこの液体に適応させる事で、特定の性質を持った液体としての「アンモニア」と言う言葉が成立する。

問題は、この液体の「特定の性質」に付いての認知は、飽くまでも頭の中の認知で有って、それは認知している者の頭の中だけで成立して居るだけで、他者には伺い知れないのです。それなのに、この液体が誰にでも「アンモニア」と呼ばれるのは、この液体について、誰でも認知するモノが、同一で有ると判断しているからです。
つまり、私も彼もつねその五感で液体を個として知覚するが、同時にその性質を「特定の性質」として、認知し、その特定性を、液体の反応として調べる事で、頭の中の「特定の性質」が、液体の性質として特定されたのです。
「アンモニア」と言う言葉の、この液体についての名指しは、頭の中に成立して居る「特定の性質」と言う認知が、この液体の示す反応の知覚を介して、関係するからです。
特定の性質と言う認知は、それぞれの人々の頭の中の出来事だが、液体の特定の反応として成立して居る事で、「特定の性質」と言う認知が、人々に客観性として、共有されるのです。

つまり、「特定の性質」と言う頭の中の出来事は、液体の反応過程への認知として成立する事で、客観としては、誰にでも同一の認知として成立するのであり、同時に頭の中の孤立した出来事は、客観性の認知として、姿を見せるのです。

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数学と算数(1)

2017/04/28 20:59
例題
「一袋8個入りのチョコレートが7袋と袋に入っていないチョコレートが17個ある。此処にはチョコレートは全部で何個有るか」

この小学二年生に対して出した例題に対して、二年生は答えを次の様に解答した。
(8×7)+17=73・・・・(1)

チョコレートは全部で73個と成った。
その答えに対して、担任の先生は、この解答式は誤りだと言う。
さて何処がどう誤りなのか、説明しなければ成らない。

答えの結果としての73個では、誤りは有りません。
先生が言う誤りとは、73個の個数の事ではなく、その73個の答えを出す掛け算が問われているのです。計算の中の掛け算が間違っていると言う事ではなく、小学2年生のレベルでの解答の方法なのです。

二年生の段階で、掛け算を使用した事が問われている。つまり、チョコレート8個入りの袋が7袋あると言う事に対して、掛け算である
8×7は、算数の過程では、一段上の飛び級の思考であるなら、ではまず何が前提にになっていなければ成らないか。
それは
「8+8+8+8+8+8+8=56」・・・・(2)
と言う足し算なのです。

つまり
         「8+8+8+8+8+8+8」+17=73・・・・(3)
足し算で合計を出すのです。

私の年代の知識ならば、掛け算をした方が早いのです。
しかし、二年生ではまず数学史としては、足し算を思考して、(3)の計算をして、合計を算出するのです。
その足し算が掛け算に向かう道筋が明晰に成った時、初めて掛け算の簡易性を使用する事になる。

掛け算の簡易性は、数学の積み重ねの上に成り立っているのであり、二年生は、足し算のうえに掛け算が成り立って居る事を知る事が、学としての勉強なのです。
確かに独学で掛け算を勉強したので(2)ではなく、(1)の式に成ったのだが、その独学の背後に、足し算と掛け算の関係が知られていなければ、(1)の式で答えを出しても、学としての積み重ねとは言えないのです。教室で算数を学ぶとは、足し算、引き算、掛け算、割り算の間柄を学ぶ事であって、例えば掛け算に対して、8×7 と  7×8  が同等に成立するのは、掛け算のルールであるのに対して、8×7は成立しても、7×8は、成立しないと言うルールもあるのです。

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アニメ「君の名は。」の言語

2017/03/15 22:21
新海誠監督「君の名は。」男女の主人公の心が入れ替わる物語
男の子の主人公と女の子の主人公の心が入れ替わる。
男の子も女の子も、その姿はそのまま男であり、女なのだが、成長してきた過程で、身体の内部にある心が、男として、女として成長する。

その心が入れ替わる。
Aと言う身体にaと言う心が入り、Bと言う身体にbと言う心がはいる。

AaーーBb
この身体と心「AaーBb」と言う区別に対して、心「a,b」だけが、身体や心自身を思考して居るのです。身体Aに対して、心aが考える。Aaで有れば、心aは、生まれながらのモノとして納得する。
時たまaが、Aaを自然として 受け入れずに、齟齬を感ずる事がある。彼女あるいは彼は、BaかAbを選択する事になる。

さて英語では、一人称を表すのに「I」を使う。AaやBbの心が、自分自身を言葉にする時、「I」を使用する。日本語では、aやbが、自身を一人称として表す時、Aが男であるか、女であるかで、一人称の言葉が違ってくる。つまり、一人称としては同一だが、一人称を表す語彙に違いがあるのです。

男性ならーー「俺」「僕」「わし」「拙者」
女性ならーー「わたくし」「わたし」
と言う、性の違いに対応して一人称の語彙が使い分けられる。
とすると、英語は、性の違いには関係なく、一人称は、全て「I」となっている。

英語の、性の区別を取り上げない一人称に対して、性の区別を前提にした日本語の一人称を考える。一人称と言う両言語の共通から英語を取り上げると、Aaであっても、Bbであっても、心「a,b」が自らを一人称として「I」で表現する事になる。
日本語では性の区別が、一人称の語彙の違いが成立している。

話は、二人の主人公が、その姿のまま、中の心が入れ替わる事で有り、入れ替わった心aは、身体Bに対して、どう振る舞うか。入れ替わった心aは、Baとして成立する事で、身体としての男として「僕は・・・」と発現する。
周りの人々は、Baを見て、男だと判断しているが、心aに取っては、自分は女の子として「私は、・・」と発現してしまうのです。
それは周りの人からすれば、男なのに、「私」と発言していると思ってしまうのです。
さらにa自身にとっては、自ら女の子だから「私」と言っているのです。
女の子の心aであるから、それ従って「私」と言うのだが、同時に身体は男だから「私」と成ると、違和感となるのです。

その日本語の過程に対して、英語では心がどんなに女の子で゛あろうと、自分自身は「I」であり、身体としても「I」で表すのだが、それでも一人称の使用に別に違和感は生まれないのです。

日本語では人々の性の区別に対応し、人称の語彙が成立して居るからです。

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日本語の「は」と「が」

2016/11/15 22:04
太郎は、ボールを投げると     ・・・・(1)
次郎は、安打を打つ
ーボールを投げる事は太郎の一つの部分であって、その一つが成り立つと、次の次郎の行為を「と」で導き出すと言いたいのに、太郎と関係なく、次郎の行為が独立してしまう。
つまり、二人の行為は、それぞれ独立に成されているのにつ、それを無視して「と」で結びつけようとしている。

太郎は、ボールを投げる ・・・・(2)
次郎が、安打を打つ
ー個としての太郎の、部分であるボールを投げる事を表す。次郎の安打は、太郎の投球と無関係で、ただ次郎以外の他者を巻き込んでいて、三郎でなく、四郎でもなく、次郎という個が、安打していると言うのです。

そこで
太郎が、ボールを投げる
次郎が、安打する
ーになると、「が」は、野球チームと言う集合体を想定し、その集合体に一人一人の個が想定され、チームの中の太郎という個と次郎と言う個に、投球と打撃が割り振られている。

「は」の示す太郎と言う主体は、個で有りながら、絶対の神が示す、唯一性としての個なのです。つまり、ホールに並べられた多数のパイプ椅子があって、その一つ一つの椅子が、個として示されている。そのホールに一個の椅子がある場合、それはたまたま多数に対する一個なのだが、それがあたかもキリストの神の様に唯一のように考えられてしまうのです。

イスラムの神や、キリストの神に対して、唯一神として扱いながら、しかしキリストに取っての唯一であり、イスラムにとっての唯一なのに、二つの唯一がいる事になってしまう。
この場合、唯一を理解するには、イスラムの神も、キリストの神も同一の神で、同じ神を信仰しているだけで、けっしてそれぞれの神がいる訳ではないと言う事になる。

そこで「此の神は・・・」と言う様に、個別の指示が、言葉として成立するのは、飽くまでも言葉の表現の上であって、キリストの神は、多神教の神の国である日本とは違い、此神しか存在しないのだから、唯一神としては、あの神も、此の神も、その神もありえないのに、それでも「この、その、あの」神は、言葉として成立して居るだけなのです。つまり、唯一神に対して、人間が認知しようとする事を「あの、その、この」神として言葉で扱っているだけなのです。

イスラムの神、キリストの神の客観性としての思考は、唯一神であり、この宇宙の万物を成り立たせている、内在する力であり、万物が活動するのは、その神が存在するからなのです。
多神教の神は、一神教と同じく、同じ万物の活動に対して、内在する力と考えられそうだが、万物の姿そのものが、神として、力の形態を示すのです。
自然の雷が、鬼の活動だとイメージする事で、一神教の神が内在するのとは違い、雷に内在する力ではなく、雷そのものを万物の姿で、イメージする。

「は」は、「太郎は、・・・」と言う言葉の「太郎」と言う主語を、一神教の神として扱うのです。その太郎に内在する力の現れで示そうとするのが、述語としての「ボールを投げる」等になる。ボールを投げる等は太郎の実行する行為だが、飽くまでも主である太郎の属性の一つなのです。

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禅(1)

2016/10/16 13:06
祖師西来の意

此の言葉に対峙した時、私は日本語という言葉として理解する。
それは白紙の上のインクの跡を目にしても、、私には只インクの跡としか見えないが、それをアラビア語と言う言葉として読み取る人がいるのです。
Aさんには、白紙の上のインクの跡ーー私にもそうだし、他の人にそうだが、皆インクの跡なのですーーでありながら、アラビア語として見えている。
そのAさんのインクの跡をアラビア語として理解出来る力は、インクの跡を意味ある言葉として理解したのてす。
しかし私にはどうしても単なるインクの跡にしか見えていないので、言葉として理解出来ていない。
それに対して、日本語として理解出来ている「祖師西来の意」と言う言葉は、インドの禅仏教の師である達磨大師が、西方の国インドから、東の国中国に来たのはどうしてかと問うているのです。
この問いは、達磨大師が中国に来た理由を問う言葉なのです。
これらの問いも答えも、ありふれた日常の理屈なのです。問いに対する答えで、言葉は完結している。
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禅の言葉(9)

2016/09/26 20:10
禅は何事も教えはしない。
と言う言葉は、Aとして、Bとして、Cとして、その他の何事も知として、禅には教える事は無いと言う事に成る。禅が「何事も教える事が無い」とすると、しかし「禅には何事も教える事は無い」と言う言葉は、しかしその言葉は、その言葉通り、何事かを教えている事に成る。

この言葉は、何事かを教えているから、「禅は何事も教えはしない」と言う言葉を理解する。つまり、人間は禅という事実ではなく、言葉に接触する事が、理解や不理解を成立させる。言葉として表されているモノを言葉として理解する。とすると「禅は何事も教えはしない」と言う言葉は、まず禅と言う言葉が何を指示し、どんなモノかを示そうとする。その特性が確定した禅という言葉が指示しているモノは、歴史的知としては、釈迦が菩提樹の下で静に坐禅をしていた時に、得た何事かであり、それを後に悟りと言う言葉にしている。釈迦が得た悟りとは、確かに釈迦の得た何事かだが、しかし私達には、「何事か」としか言えず、その正体を知見している訳ではない。
それでも釈迦自身や弟子の言葉に接する事で、言葉越しのモノを理解して、その理解を踏み台にするのです。
禅は何事も教えはしない
は、禅自体がと考えてしまうが、自体ではなく言葉に表されたモノが問われている。
禅は、まず言葉で有り、言葉として、聞き手に理解を与えるが、しかしそれは禅が実行している出来事を言葉にしているのです。
つまり、禅は釈迦自身の禅であって、それを身体表現や言葉として他者に伝達する事で、今此処に記されている言葉としての問題が生まれたのです。言葉を介して釈迦の悟りに到達すると言うイメージなのだが、言葉は、踏み台で踏み台の次に悟りに辿り着くのではない。
言葉は、釈迦の何事かに、大枠の目印を付ける事で、何事かを目印と言う記号化する事に成る。
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禅の言葉(8)

2016/09/12 19:27
「生まれながらに持っている仏性」
とは、存在する事実であり、事実と言う人間の頭の中の判断なのです。

この説明に対して、
    存在する事実

    事実と言う人間の頭の中の判断
と言う区別が立てられる。
しかしこの二つには、違いがあると言えるのだが、その前に二つは、此処では全て言葉で在って、言葉で違いを表そうとしているのです。

その二つが言葉だと言う事は、釈迦の体験した判断と言う頭の中の出来事が、言葉に表されたと言う事で有り、二つが取り上げられる限り、釈迦の頭の中の判断が前提にされたと言う事なのです。

つまり、釈迦の頭の中の判断である限り、「存在する事実」は、判断であるのに、頭の中を離れて「存在している」と短絡される。頭の中の判断が、「存在の事実」として言葉に成り、「頭の中の判断が、存在の事実となる」という言葉となっているのです。
頭の中の思惟としての判断に関わりなく、事実は存在するのだが、しかし今は只、そう頭が思惟として判断しているのであって、「事実として存在する」と言っているに過ぎない。
では事実としては存在しないと言う事だろうか
そうではない。
思惟から独立して「事実が存在する」と言う事で、一生懸命に思惟しようとしている限り、それは思惟の中の出来事になってしまう。思惟の中の出来事なのに、思惟から独立してと思惟してしまうのです。
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禅の言葉(7)

2016/09/11 10:46
大慧宗杲・ウィキペディア
ー 曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。対立する宏智正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避ける為に、坐禅する事自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判した。

この臨済宗と曹洞宗の理論的な対照は、宗杲と正覚の当時から現在の日本にまで継続している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大慧も、人は一人一人本来皆仏であると言う本覚思想に立っている。
しかし、人は現実には迷っている。だから看話によって大悟(始覚)し、それによって迷える現実態の自己を克服し、本来の悟りに立ち返らなければ成らない。

私達は一人一人生まれながら仏なのだが、仏であると言う事実を認知していないのです。その認知が最初に出来たのが、釈迦であり、当初バラモン教徒として苦行と言う修行によって、自己を克服しようとしていたが、克服が出来なかったことで、苦行を諦め、菩提樹の下で静に坐っていると、明け方明星のしたで自己を克服したのです。

その克服が人間は産まれながらに悟っているのに、苦行と言う修行で悟りを手にいれると言う発想の過ちに気付き、悟りはそもそも手に入れるものでは無く、生まれながらに持っているのに、苦行などの努力によって手に入れるモノだと言う発想に縛られていたのが、菩提樹の下の静な坐禅によって、視野が広がった事で、生まれながらに持っているのだと気付いたのです。

「生まれながらに持っている仏性」
は、有る事実を示しているが、同時に「生まれながらに持っている仏性」と言う認知を表す言葉なのです。釈迦もバラモン教徒であった時は苦行と言う修行に捕らわれて、「生まれながらに持っている仏性」と言う事実に気付かなかったのであるが、それが菩提樹の下での静かな坐禅の中で、その事実に気付いたのです。

事実に気づく事で、事実を意志としてコントロール出来るようになる。
気づいたからこそ、事実があると言葉に出来、言葉にした事で、気づく以前から事実が存在していたと、言える様になったが、しかしあくまでも気づいた事が全ての始まりなのです。断定も推測も、その認知が始まりなのです。
事実に気づかなければ、意志のコントロール下に入る事もないのです。
つまり、事実の存在は、気づこうが、気づきまいが、事実は有るのだが、しかしこの様に言葉に出来るのは、あくまでも事実の存在に気づいたからであって、私達の言葉は、其の気づきの上に成り立っているのです。

「生まれながらに持っている仏性」に気付いたのは、歴史的には釈迦の気づきが始まりであり、其の気づきが成立したのは、釈迦のバラモン教徒としての苦行による修行と其の放棄と、菩提樹の下での静かな坐禅から始まっている。
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禅の言葉(6)

2016/09/01 22:42
「本覚門」から「始覚門」へ
本覚ーー本来具わっている「悟り」
始覚ーー教えを聞いて修行し、初めて得られる「悟り」

始覚が本に合したのが仏
元々本覚なら、どうして「迷い」があるのか、もし「迷い」が無いなら、釈迦はどうして修行して、明け方の明星を見て、悟ったのか。

釈迦はバラモン教徒としていわゆる苦行と言われる修行に励んだのだが、苦行から離れて菩提樹の下で坐禅を組み始めたのです。夜明けの明星を見て悟ったのです。
バラモン教徒の修行に対して釈迦の坐禅は決して苦行ではなく、苦行から離れた事で、苦行によって覆われていたモノが消えて、其処に悟りが存在していた事に気付いたのです。
苦行と言う修行は、悟りを覆い固定する事で有り、覆いが消える以前に処に悟りが存在していたのだが、苦行と言う幻想観念が覆いを消せない限り、悟りの存在に気付かないのです。覆いが消えた時、菩提樹の下での坐禅は、悟りが前々から有り続けていた事に気付いたのです。

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禅の言葉(3)

2016/08/16 14:11
禅の語録20 「禅の語録」導読   
                小川隆   筑摩書房

一切を空無と看るにも「関わらず」

   神通ならぶに妙用
   水を運びまた柴を搬ぶ

上の様な語が有ったのではない。
全てを空無と看、自己の内外に如何なる聖性も定立せず
如何なる奇特の事も希求しない、「だからこそ」取るに足りない平凡な日常の営みが、一つ一つありのままに肯定される。

道には修める様な姿形はなく、法にも悟るべき姿形はない。
ただ「閑」であって、過去も思わず明日をも思わず
「一切時中総て是れ禅なり」あらゆる時が全て禅なのです。

唐代禅における激烈な聖性否定・偶像破壊の精神はそのまま他愛もない様な無日常性の即自的肯定と表裏一体と成っていたので。
偶像を建てる精神を否定する事は、そもそも偶像を建てるからで、偶像を建てる事が無ければ、偶像の否定など必要が無いはず。偶像の否定を何か特別の様に思うのは
そもそも偶像を建てるから、否定をしなければ成らないのだと言う事なのです。

この時偶像を建てる事に対して、その聖性を理由にすると、偶像を否定しようとしても、聖性を理由にしている事が有る限り、偶像が蘇る。さらに聖性の理由を否定しようとすると否定の意志が立ち上がる。
では否定する意志の否定という入れ子式の思考に陥らない為には、理論としてではなく、身体に即すれば
    神通ならぶに妙用
   水を運びまた柴を搬ぶ
と成るのだが、其処に新たに「何気ない日常」が存在すると言う理屈が出て来てしまうのです。
そして私が今此処で記している事は、どうしても言葉にしてしまうと言う人間の思考の勢いなのです。

この勢いは、言葉に対して、「不立文字」と言う文字を建てる勢いとおなじなのです。これは聖典を建てる事はないが、日常の言葉、寒ければ木材を燃やして暖をル事なのです。
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禅の言葉(4)

2016/08/08 00:46
禅は、次の様に言葉について主張する。

言葉は、月を指し示す指で、指し示して、「月」が確認されれば、指は只の身体器官に戻る。拳にした手の人差し指を、指示するモノの方向に伸ばす。この指を伸ばす行為は、彼の身体の行為で有りながら、彼が知覚しているモノを特定する認知行為なのです。
腕を水平に上げ、人差し指を伸ばし、特定の方向に向けた時、指が月に直接触れれば、月が特定されそうだが、しかし月の表面が指示される事も有り得るので、是だけの説明では、指示物は特定できない。

人差し指での指示で、どんな対象なのかが特定されるのは、視知覚器官が知覚していると自覚している事による。
しかしそれは、ただ意識している本人の内部の認知で有って、本人には指さすモノが何なのかは、特定されていると言う事にすぎない。

では、特定されそうなのは、指さす身体が正対する正面により、方向が特定されるからです。指さす方向にあるモノと言う枠が決まるのであり、その枠のどれかを、指示の言葉で確定していくのです。

人差し指が指示するモノは、飽くまでも指が向かう方向にあるもので
その方向を了解しながら、月と言う名前でそのモノを確定する。
これが見上げた夜空の無数の星の中で、宵の明星について「あれがそうだよ」と言われても、無数の星のどれが宵の明星なのか、宵の明星の説明が出来ていなければ、個として特定できないのです。沢山の星に対して、指は一個の明星を特定できるかとなる。

その星の中で、夕方の西の空に一番輝いている星を「宵の明星」と言うなら、夕方にその星を人指し指で指し示す事ができるのです。
しかし指さしている方向の、「星」と呼ばれる諸々の星に対して、目的の一つの星は、只視覚をとおして意識するだけなのであり、その意識を導きだすのが、対象を大まかに意志する方向としての指さしなのです。
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禅の言葉(2)

2016/07/26 00:07
禅の語録20 「禅の語録」導読    小川隆   筑摩書房

木像を燃やした和尚と仏の像を燃やすなどやっては成らないと主張する弟子の僧に対して、眉毛が一度に落ちてしまったのは、僧の方だった。僧にはどんな咎があったのか。
普通には仏像を燃やすなど遣っては成らない事だから、弟子の僧の反論の方が正しいはずで、そうすると罰を受けるのは丹霞和尚なのに、仏像を燃やしてはいけないと言う僧に罰が下されたのです。

和尚は、単に木片を焼いたが、僧は仏が焼かれたという。
僧の考えでは、焼かれても仏は残らなければ成らないし、もし残るなら和尚の焼却行為を否定するわけにはいかない。

和尚はただ今日は非常に寒いから、木片を燃やしただけです。
それに対して僧は、木像に仏を見て、焼却されて仏が無くなるか、焼却でも仏は存在し続けるかの思考の迷路に入り込む事になる。

此の話の主役は、僧であり、僧が己の心の描き出す聖なる「妄想」の中に生きていた事に支点がある。仏性は、木材の中にあると考えると木像仏を焼いて、暖をとると仏性は何処へ行ったのかと妄想する。

木像は木製を素材にした仏の似姿なのだが、ただ人が頭の中で想像する像に照らし合わせて、木材に似姿の形を表すのです。木像は内部に仏性を持つのだと言う発想ではなく、人間が自分達の頭の中の構築した像を木材に形づけているだけなのです。

木像を大事にするのは、木材と言う客観的物体に仏の心が入っている言う発想ではなく、人間の頭の中の構築を木像を介して組み立てるのであって、その構築の自由さがあれば、木像は単に木材であって、寒さで暖をとるのは、その木材だからに過ぎず、それを仏性が客観的にと考えるから、燃やしては問題が起きる等の妄想になってしまう。

丹霞和尚は、その様な発想はせず、只寒いための暖として木材を燃やしているだけなの、僧は仏性は存在し続けると言う発想から抜けきれないから、単なる木材として燃やす事が出来ないのです。

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禅の言葉(1)

2016/07/18 14:13
禅の語録20 「禅の語録」導読    小川隆   筑摩書房

丹霞焼仏
ー丹霞和尚は有る冬の寒い日に、木の仏像を打ち壊して焚き火にしていたと言う。
「何と勿体無い事を!」と傍らに見ていた人が恐れに打たれて言った。

和尚は、彼の言葉に反応する。
私は灰の中から舎利を拾うのだと、静かに答えた。

釈迦が死した時に荼毘に付された事で、灰の中から舎利を拾う事はあっても、木像を焼いても灰の中から舎利は拾えませんと怒って言い返す。

丹霞和尚「もし舎利が拾えないなら、此は仏陀では無く、単なる木片に過ぎないから、私は何も勿体ないことはしていない」と答えた。

傍らに居た人の言葉は、木像の美術的価値として、勿体ないと思っているだけでけっして仏陀に関わるからではない。
仏の像とは、仏の姿形を彫刻した表現像であっても、木製の像にすぎない。木像と言う表現像を通して、釈迦の悟りの姿で有る仏と言う認知を、木像に託して他者に知らしめるのです。

釈迦の悟りの姿を、仮に木像で表し、まだ悟っていない人々に悟りの姿への入り口を見せるのです。入り口は多様であって、木像は、その一つでしかないのに、彼は木像を絶対として扱うから、寒さの暖を取る為の木片は、けっして単なる木片ではなく、仏なのだから、やっては成らない行為であると言う主張となるのです。

美術品としての価値性があっても、生死に関わる寒さを防ぐために木像を焼いて暖を取る時、価値があっても、木片として扱う事を選択したのです。もし銅製の仏像なら、けっして暖をとる対象には成らないのは、その像の材質としての銅製と言う事による。

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ペンフィールドの実験(3)

2016/07/03 14:14
機械の中の幽霊ーアーサー・ケストラー
ペンフイールドの不思議な報告

大脳皮質の選定点に微量な電流をながすと、その選定点の大脳部位に対応した認知が患者に成立する。患者は意識が成立して居て、大脳が作動したモノを認知している。医師は、大脳皮質の部位に対する患者の認知の言説を対応させ、大脳皮質のA点は、音楽が聞こえていると言う言葉とする。
当然「音楽が聞こえる」とは、患者の知覚なのだが、ただ知覚していても、黙りを決め込めば、医師は大脳皮質のA点を電気刺激した事だけが残って、その部位が認知として何が成り立って居るのかは明示出来ない。医師に取っては、患者の言葉を信じる事でしかないが、医師自身が自分の大脳皮質のA点部位を刺激して、どんな認知が成立して居るか体験すれば済むのです。

第三者の患者と私自身が患者で有る事に対して、大脳皮質への電気刺激は、同じと言えるし、刺激に対する反応としては、脳の作動としては同じだが、それを認知として扱う場合、「私が音を聞いている」とは、現に聞こえている事だが、第三者患者では、彼の「私が聞いている」と言う言葉に向かうだけと言える。

100人の人間が自分の大脳皮質を自分で実験するなら、大脳皮質の
選定点の区分とその区分に対する認知は、自己体験として成立して居る。

皮質のA点は、音を聞いている認知に対応していると言える。皮質A点を刺激すれば現に「音を聞いている」となるので、そのA点は、音の認知場所だよと対応関係を結論できる。
しかし医師に取っての第三者患者では、彼が認知していても、と医師が言葉にしても、患者がその認知を言葉にしなければ、医師は患者の認知に到達は出来ない。
ただ到達出来るかではなく、皆自分の体験として、到達している、音を聞いているのであるが、自分が他者の聴覚体験に関わるのは、音源に関わるか、第三者の「自分は音を聞いている」と言う言葉を信ずる以外ない。その心は、自分が体験している知覚経験を重ねて、信ずると言う事になる。
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ペンフィールドの実験(2)

2016/06/22 23:31
機械の中の幽霊ーアーサー・ケストラー
ペンフイールドの不思議な報告

 ペンフィールド博士は、患者の頭がい骨を開けて手術をしました。手術中に脳の大切な場所を切ってしまうと大変です。そこで、患者が目覚めたままで話ができるような麻酔(ますい)をかけ、電気刺激で場所を確認しながら手術を進めました。
 このとき不思議なことが起こりました。脳の一部に電気刺激を与えると、患者が「聴いたことのない音楽が聴こえてくる」と言ったのです。
 脳の中にある記憶のファイルを電気で刺激することによって、音楽(患者が昔聴いていて忘れていた曲)の情報がよみがえったのです。
 この「実験」から、記憶は脳の中にファイルされるということと、電気刺激と記憶(脳の活動)に何か強い関連があるということがわかりました。

ーー大脳皮質のそれぞれの場所を電気刺激する。
Aと言う場所を刺激をすると、患者には聞いた事の無い音楽が聞こえてくると言う。
その刺激で、蓄積・記憶されて居た音楽イメージが、聞こえると言う状態になった。
耳に聞こえる音は、外部の空気の振動が、鼓膜を振動させ、鼓膜に接続している聴覚神経を電気の流れとして伝わり、脳細胞を刺激すると
脳細胞の刺激としては「音を聞いている」となる。
外部からの空気の振動が鼓膜や聴覚神経を作動させる事が耳の外からの音として了解される。
大脳皮質のAと言う場所を電気刺激する事で、頭の中に聞いた事の無い音楽が流れているとは、耳から入って来る音を聞いているのではない。
外部からの音が聞こえている事ではなく、あくまでも脳内の音表象なのです。
現実の外界の空気の振動が、外界の音として脳で処理される内、大脳皮質のAと言う場所の刺激は、耳で聞いている事ではなく、聞くと言う観念が成立する事に成る。
医師による大脳皮質のAと言う場所の刺激は、誰でも確認出来る脳という細胞への刺激なのだが、その結果生まれたモノは、刺激を受けた患者が脳内に音声という表象として知覚しているだけなのです。その刺激で成立して居る脳内のモノを患者は知覚しているが、しかし医師ははただ大脳皮質Aが刺激されたと言う事を認知しているだけで、その刺激がなんなのかは、理解していない。
そこに患者が「聞いた事の無い音楽が聞こえる」と言葉を医師にむけたのです。医師はその言葉が、患者自身が認知しているモノの言葉だと理解し、大脳皮質のAは、音楽の認知に関係していると、結論する。しかし医師には患者に聞こえる音楽が、テープレコーダーの音楽を聴くようには理解出来ない。それはただ音楽表象のとして一般的レベルの「音楽が聞こえる」と言う、自分自身の体験を踏まえた理解が成立しているだけなのです。

とすると、耳から入った空気の振動が聴覚過程の結果、大脳皮質のAへの刺激として成立する事で、耳から聞こえる音を知するのに対して、同じ大脳皮質への直接的な電気刺激では、脳内の音表象は成立しても、けっして耳から入る音とは了解されないのです。

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ペンフィールドの実験(1)

2016/06/19 23:04
機械の中の幽霊ーアーサー・ケストラー

患者の脳手術の時、露出した脳について、実験する技術を開発
大脳皮質表面の選定点に、低圧の電流を流す。
大脳皮質の特定の場所への電流の刺激は、身体の特定の部位の活動として関係づけられる。
大脳皮質のへの電流での刺激が、脳細胞につながる神経を通じて身体部位の活動として表れる。

この大脳皮質の刺激の現れは、刺激実験をする医師の視点から認知されているのであり、大脳皮質の特定の場所の確認と身体の部位の活動の確認をしているのです。
大脳皮質の特定の場所への刺激が、身体の一定の場所の部位の活動として現れていると言う確認は、大脳皮質の特定の場所を変えながら身体の部位と関連づける。

医師による実験として大脳皮質の特定の場所への電気的刺激が、身体の特定の部位に生ずる事を確認するのであり、大脳の地図を作ると言う事になる。

さて医師の視点ではなく、患者の視点から考える。
脳は特定の場所に電気的刺激を与えても、患者がその特定の場所への認知は成立しない。皮質には感覚が無いので、例えば腕に水滴を落とすと、腕の特定の場所に冷たさを感覚して、その特定の場所を感知するのです。それに対して、脳は電気的刺激を与えても、感覚が成立しないので、患者には医師の視点の様に、特定の場所の感覚は成立しないのです。つまり、患者は大脳皮質の特定の場所が電気刺激を受けている感覚は無く、ただ身体の部位か動いているル事だけが感覚されているだけなのです。

医師の視点による、刺激された大脳皮質の特定の場所と言う認知は、身体の部位の活動と関連づけられるのに対して、患者は身体の特定の部位つまり右手が指が動いていると感覚しているが、これはあくまでも、ただ手の指が動いていると言う自動性だけで、動かす目的性とは無関係のです。指は動いてしまっている。
大脳皮質の特定の場所の刺激は、右手の指が動いていると言うだけであって、動いていると言う運動性以外に何も成立して居ないのです。

右手の指辺りがむずむずするので、そのむずむず感を何とかしよう言う目的の実現のために、右手の指を動かす。
この目的性に対して、医師の実験としての大脳皮質への刺激では、目的性が無と言う事が、たた右手の指が動いてしまっていると言う事に成る。
右手の指を動かすと言う事が、意志によって動かすと言われる為には単に大脳皮質の特別の場所が刺激されて、身体部位としての右手が動いていると言う事でなく、それに前頭葉の働きが、加わる事で、意志と呼ばれる脳の働きが説明されるのです。

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「は」と「が」の違い(2)

2016/03/24 12:14
昼飯を食べる為に、3人で食堂に行く。
店主が注文を取りに来る。
何にしますか。

A:私はラーメンです。
B:僕はカツ丼
C:僕は天丼を
皆「は」になっているのは、注文する主体が、食べたいモノと言う自らの空腹から、頭の中に成立しているイメージを言葉に表しているからです。
あくまで主体の意志として成立している注文と言う行為に対して、意志する内部を持つ主体を「は」で表している。
つまり、「は」で表す主体は、単独の個として、内部を持ち、述語で表される行為は、あくまでも内部の出来事なのです。

厨房で調理して出来上がった料理三品が3人の前に出される。
その三品の料理を前に、三人が発言する。
A:私が、ラーメン
B:僕が、天丼。
C:僕が、カツ丼。

テーブルの上にある三品を三人が分配する。分配の中心は、注文で出来上がって来たラーメン、天丼、カツ丼であって、そのラーメンに対して、三人の集まりの一人一人としての私、僕が規定される。三人は、注文した料理を選択する者として同等性であり、内部のない個なのです。私は論理としては実体で、料理を持つ者という一色になっている。体育館に並べられたパイプ椅子は、100個の椅子としての同等性を成立させている。
三品のそれぞれを選択する者としての、私であり、三人は、それぞれ個性ある者でなく、選択者としての同等性なのです。

三品の料理としては、注文する主体の内部からの意志として成立しているが、調理されて出て来た三品は、内部を想定しない三人の問題で有り、内部のない個としての同等性を持つ事に成る。 

他の視点
ラーメンと天丼とカツ丼が運ばれる。
この三品に対して
私が、ラーメン。・・・・(1)
私は、ラーメン。・・・・(2)
この違いは何か。

それは視点が向かう対象に対する主体の問題なのです。
(1)は、出来上がってテーブルの上にある三品の料理に対して、ABCの三人が対等な個として関わる。「私が、」「僕が、」「僕が、」と表す。
では「私は、」は、どう理解されるべきか。
それは、新規にラーメンを注文する時、まだ出来上がっていないラーメンとして、注文する私の、食べたい物を意志するのです。

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